中沢新一への疑問

中沢新一への疑問

そもそも「資本論」のマルクスが行った19世紀後半の資本の分析をもって、21世紀の資本をそれほど的確に分析できるのかという疑問が起きますが、ただし「賃労働と資本」ではマルクス現象学的に、現在のピケティが行ったように、「資本」を非常に皮相的にとらえた視点が大切だったのではないかとおもいます。そうして分析の対象としてとらえた「資本」から直接に、「労働」のあり方がみえてきたのであり、ほかならないこの「労働」はもっぱら資本家のために富を、そして自らのために貧困を生産していくことがみえてきた、これが決して終わらないことがはっきりとみえてきた、このことをマルクスは言わなければならなかったのだと思います。さて中沢によると、「内部情報」のピケティに欠けているのは「唯物史観」ですが、これにたいしては、マルクスはほんとうにそれほど唯物論+世界史だったのかと問い返したいです。例えば、「資本論」のマルクスエンゲルスは、相対的剰余価値概念を検証するためにアイルランドの地代について研究していました。そこで当時ダブリン城にあった英国総統府の資料をフルにつかって論証している実証性は、やはり「内部情報の処理」というものでした。ピケティの場合は唯物史観の外部で分析が行われているとしても、長期的傾向としての利子率ゼロの仮説に反駁するときの批判的姿勢は、マルクスのものと全然別物と考える必要があるのか?肝心なのは、行き詰ったようにみえるどんな思想と認識哲学すら容赦なく批判していく弁証法という批判精神のあり方だったのではないでしょうか。ここで中沢のマルクスに欠いているのは、21世紀の貧困問題と、自身の天皇制構造論が1%に属しているのではないかと疑う弁証法の批評精神。しかし (多分ピケテイを読んではいない)中沢にとっては、本当はこういう方法論の事柄はどうでもよい感じがします。ただかれの関心の根底は、ピケテイの本が「資本論」によって正当化されているのかということ。それだけが問題にされているのではないかとおもいましたが、よそで柄谷行人佐藤優がやっているのと同じ、そこがヤバイのです。中沢ほどの思考の柔軟性をもった知識人も例外ではないということなのですが、批判されることがなかった無傷のままの山口と網野の仕事に負う天皇制構造論が、絶望的にここにきたのかと。つまり日本文化の固有性でいわれる固有性と同じ意味で、「資本論」を読む自己のこだわり、言い換えれば特異点へのこだわりにはまる日本知識人がもとめる固有性のこと。緑の民衆史の思想家にみえてくる、顕著な日本知識人の「資本論」への内面化は、中心と周縁の論理を展開した「帝国の構造」の土着化かもしれませんがね。


「「19世紀の資本」であるマルクスの本と「21世紀の資本」であるピケティの本の一番大きい違いはどこかというと、マルクスには「唯物史観」というものがあることです。マルクスは我々が生きている資本主義の世界は歴史的に形成された一過性のものであるという認識にたって、それはどうやって形成され、どういう必然性をもって変わっていくかというのを描いた。それが「唯物史観」です。だけどピケティの本はマルクスの「唯物史観」にあたるものがない。だから、新古典派経済学と同じように市場経済を出発点にしていく。しかし、それはマルクスからみると市場経済は歴史的形成物だから、いつまでも生き延びるはずはないし、必ず死を迎えていくという認識がある。吉本隆明も同じで、彼は「資本」の問題も情報の問題も「自然史過程」という考えでとらえようとしていました。いま、僕らが欠いているのは、グローバル資本がどのように形成され、世界を支配し、解体していくかというのを考える知性です。「自然史過程」としてのグローバル資本という問題をとらえる努力を怠っていて、ピケティのように資本主義の内部情報の処理だけでやっていく、近代主義的とも言える知性形態がもてはやされる」(中沢新一