SUMMARY <No.6> -中国と<帝国>的視野ー「琉球」をなぜ語るのか、汪輝「世界史のなかの中国」を読む'、子安「帝国か民主か」より

・沖縄の問題を解決するために、知識人は再び、沖縄の問題を推進してきた<国家と民族>の知の構造に依拠することが倫理的にゆるされるのだろうか。ナショナリズムの自己同一の言説から、差異を語ることができるのか?いかなる国家、いかなる民族であれ、国家や民族の枠組みから、他者を語ることはできるようにはおもわれない。「現在、地球化と地域化が同時に存在し、両者がせめぎあいながら、かつ通じ合うという時代にあって、国家や民族を媒介として沖縄を語り、沖縄に同情し、沖縄に謝罪し、沖縄に期待をこめようとしてきた日本の知識人の研究姿勢と沖縄認識の内容が根本的に問われている。」他者が語りうる対象となるとき、他者は他者ではない。他者は(軍事基地に役立つ、再び統制のために測量された地図と登録された土地の名のような) 表象となっているだけだ。
・知識人はどこからいかに、語りえないことを語るのか。おそらくは、この国家によって死に追いやられた死者、そして国家が決して祀られない死者の側に立つことによってである。そうして「少なくとも私には戦時から戦後への<祀る国家>的持続としての<靖国日本>への解体的な批判とのかかわりでしか沖縄への言及はありえなかったのである。」沖縄は日本帝国の地理だけではない。政治的にも辺境をの位置を担い続けてきた。日本の国家としての自立によって、沖縄はどこへ消失してしまうことになったのか?このことをかんがえるとき、「戦後日本」としての国家的自立、経済大国としての日本の自己形成がもつ虚偽と欺瞞とを<沖縄から>の視点と、そして<靖国>にたいする批判的言及、この両者は、知識人において互いに切り離すことができない関係をとる。
・語りえないことをいかに語るのか?ウィットゲンシュタインはそのときは沈黙せよといった。語ることと語らないことの<間>にとどまることの倫理的な意味を考えよといいたかったのではないか。ところで、いつ語ることが始まるのか?いつ語らないことが終わるのか?戦後のわれわれにとって「沖縄」とは、主題として語ることのできないような問題であったが、東アジアのポストコロニアリズムの言説が「沖縄」を「琉球」として語るのである。中立性を保って語られるということはありえないだろう。


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「日本の琉球への植民及び、1874年に台湾に対して行われた最初の攻撃(いわゆる台湾出兵事件)は、アジア地域で長きにわたり有効であった一連の関係と相互作用の法則に重大な変化が発生したことを意味していた」(汪輝「琉球」)

 汪輝(ワン・フィ)の「世界史のなかの中国」の副題は「文革琉球チベット」となっている。その副題の通り、本書第2章のタイトルは「琉球ー戦争の記憶、社会運動、そして歴史解釈について」である。中国の現代思想家の自国認識にかかわるこの書が「琉球」の章をもつことは当たり前のことだろうか。そんなことはない。私にはそれは異様に見える。しかもこの著者があえて語ろうとし、そして語ってしまったのは「琉球」であって、決して沖縄ではない。「琉球」としてはじめて沖縄は、この中国の<新左派>を称される思想家汪輝の語りうる対象となったのである。それはなぜなのか。そこには「琉球」が沖縄の中国的呼称であること以上の問題があるように思われる。

彼はなぜ沖縄を語るのか。あるいはなぜ沖縄を語ることができるのか。沖縄が「琉球」であるからだ。汪輝は沖縄を「琉球」として語るし、語りきってしまうのである。どのように彼は語るのか。彼がそのように語りきってしまうことの意味はなにか。私がここで答えようとしているのは、そのような問題である。

だがその問題に答える前に、私にとっての沖縄についてのべておきたい。本土の日本人である私は沖縄を、日本の中心を離れた北海道や九州のどこかについて語ると同様に語ることができるだろうか。日本現代史が沖縄に負わせてきたことへの罪責感ぬきに沖縄を語ることは私にはできなかった。浜下武志が戦後日本の知識人による沖縄認識をめぐっていっている。日本本土の知識人たちは、「国家や民族の枠組みを前提として、むしろ国家や民族内部の共通性や均質性を共有できなかった沖縄に対する同情と、共有させなかった日本に対する批判と、共有を拒んできた沖縄の伝統に対する驚き」とい三つのことを動機として沖縄を語ってきたというのである。だがこの沖縄についての戦後知識人たちの語りのあり方が、いま問われているのだと浜下はいうのである。
 「現在、地球化と地域化が同時に存在し、両者がせめぎあいながら、かつ通じ合うという時代にあって、国家や民族を絶えず媒介として沖縄を語り、沖縄に同情し、沖縄に謝罪し、沖縄に期待をこめようとしてきた日本の知識人の研究姿勢と沖縄認識の内容が根本的に問われている。」

私は沖縄について語るということがそもそもできなかった。私がはじめてというか、やっと沖縄に言及しえたのは<靖国問題>をめぐって「国家と祭祀」を書いた際であった。その最後の章で沖縄の住民に残酷な運命を強いた沖縄戦に触れて私はこう書いた。
沖縄県民の4人に1人が沖縄戦で死んだのである。この死は国家によって祀られない死である。この国家によって死に追いやられた死者、そして国家が決して祀ることのない死は靖国をめぐる美辞麗句が虚偽でしかないことを教えている。戦う国家は祀る英霊とともに祀られない死者を国の内外に大量にもたらすのである。」(第10章 「戦う国家と祀る国家」)
私が沖縄に言及しうるのはこのような形でしかなかった。これもまた浜下が批判的に整理した戦後日本知識人の沖縄論のあり方に属するものであるかもしれない。少なくとも私には戦時から戦後への<祀る国家>的持続としての<靖国日本>への解体的な批判とのかかわりでしか沖縄への言及はありえなかったのである。
2008年4月、私は台湾新竹の国立交通大学で「戦後日本論ー沖縄から見る」というタイトルで講演した。「沖縄はもともとの日本ではない。清と日本と政治的に等距離の関係をもち続けてきた琉球が、日本の沖縄県となったのは1879年4月4日であった。沖縄は日本帝国の地理的だけではない、政治的にも辺境の位置を担い続けてきた。その沖縄は1945年から現在まで、米軍の極東における最重要な軍事基地であり続けている。この沖縄を視点として戦後日本の解読をしてみよう」と、その講演の冒頭で私はのべた。私の講演は「沖縄」を主題として語るものではなかった。「戦後日本」としての国家的な自立、経済大国としての日本の自己形成がもつ虚偽と欺瞞とを<沖縄から>の視点によって露わにすることを目的としていた。この沖縄への私の言及のあり方は、私の<靖国>における言及と同じあり方である。

ところで私がなぜ2008年の台湾で<沖縄から見る>というような講演をしたのか。「戦後日本」の経済大国として国家形成をい<沖縄から>解体的に見ていく私の講演によって、台湾の学生たちに<台湾から>現代中国を見る批判的な視点の構成を期待したからである。しかし私がここで台湾での講演に言及するのは、この講演にこめようとした私の意図にかかわってではない。この講演で私が遭遇した一つの事件によってである。交通大学における私のこの講演のコメントを台湾の文化研究、ポストコロニアル研究を代表する学者陳光興が担当した。私の講演終了後、彼は演壇で語り出した・それは私の講演に対するコメントといったものではなく、彼自身の<沖縄論>というべきものであった。彼は延々と語り始めた。通訳もそれを翻訳することを諦めた。半時間ほど経過したところで、私は「ここはあなたの沖縄問題講演会ではない」といって、彼の発言を中止させた。これは台湾で私がはじめて体験した不愉快な事件であった。
だがこの事件はいくつかのことを私に教えてくれた。一つは「沖縄」がすでに彼らに語りうる問題として構成されているということであった。これは私の無知、情報欠如を示すような驚きであった。戦後のわれわれにとって「沖縄」とは、すでにのべたように、主題として語ることのできないような問題としてあった。私に精一杯できることは<沖縄から>見るという形で語ることであった。ところがその「沖縄」は台湾の研究者に、私が中断させなければ一時間でも、二時間でも語りうるような主題としてすでにあったのである。「沖縄」が彼らにおいてすでに語りうる主題としてあることの事情、理由を、私は汪輝の「世界史のなかの中国」を読んではじめて理解した。そしてそのことはもう一つのことを私に教えた。「沖縄論」「琉球論」が東アジアでこのような形で成立することの背景には、ポスト・コロニアル研究といった知的、言説的なネットワークが東アジア地域にすでに存在するということである。このネットワークなくしては陳光興の「沖縄論」も、そして汪輝の「琉球論」もなかったであろう。私は東アジアの台湾そして沖縄(琉球)をめぐる地域研究・文化研究的ネットワークが政治的な意味をもたないなどということはありえないという当たり前のことにやっと気付かされたのである。  

 「沖縄」を語ること。中国と<帝国>的視野ー「琉球」をなぜ語るのか、汪輝「世界史のなかの中国」を読む'、子安「帝国か民主か」より