テクストと信と他者 ー Godard, Foucault , Joyce

テクストと信と他者 ー Godard

 

 ゴダールは映画が終わったときに映画をつくり始めたというが、そうでしょうか?本当は、逆に、ゴダールが映画をつくり始めたから映画が終わってしまったのではなかったでしょうか?音声化された文字(シナリオ)に、映像と音が従属させないこと。テクストと信の結合、ここから、読む人間が信と関わり合う可能性が開けました。宇宙の根源に、思考不可能な他者を思考する振動が存在しますが、それはヌーヴェルバーグ(新しい波)と呼ばれることになりました。

 

 

テクストと信と他者 ー Foucault
 
テクストと信仰の分離、それは、本居宣長の神を外在化させたその古事記解釈に起きた脱構築でした。脱構築の果てに、ナショナリズムの形という脱構築の無理が起きるとき、このブラックホーに絡みとられないようにと、再びテクストは読む人間において信との関係を回復できるかどうかです。あるフーコ研究者のシーモヌ・ベイユへの説明できないこだわりは、この事柄から説明できることなのでしょうか?

 

 

テクストと信と他者 ー Joyce

 

ジョイスはゲール文芸復興運動に背を向けてその演劇活動を公の僧侶と嘲弄しました。が、イェーツの信の精神は否定されませんでした。「フィネンガンズ・ウェイク」では、「ケルトの書」を忠実に再興しようとして、読めない経験というものを書きました。私は読めません、だからこそ、私は考えることができます。私は読めない、それ故に、他者に依拠するのです、と

 

 

 
本多 敬さんの写真

 

 

work by takashihonda