「自由のない国に反対!」を読み解く

このまえの日曜日のこと、自由ヶ丘の方に向かって散歩していたら、「自由のない国に反対!」と訴える声がきこえてきました。「権利のない社会に反対!」ならわかるが、そうではなく、「自由のない国に反対!」、と、ラップの語り口で繰り返し呼びかけるのです。「自由のない国」というのは、なんだろうか、なにか違和感があるのですね。声の方向に近づいていくと、主張を全部ひらがなで書いた車に先導された、姑息に周囲から好感を得ようとする気が抜けた中高年百人ぐらいの町内会如きルーチンワーク的デモ行進。だがその一番先頭で、デモからも浮いていたかもしれないその若者がいました。繰り返される、「自由のない」という若者のその言葉に恐ろしく切実なものをいつまでも感じました。

正直選挙のことは詳しくありませんが、「自由のない国に反対」は、これまで自民党が地方選挙で利用してきた反共的決まり文句という感じがあります。その意味で、もし自民党ネオリベ政治から脅かされているとしたら、この若者は寧ろ、「権利のない社会に反対!」という社会民主主義的主張で呼びかけるべきかもしれません。しかし格差を是正できるとおもわれる唯一の政党である社会党が事実上消滅しているという深刻な問題に直面しています。現在ほど、「権利のない社会に反対」という言葉に無力感を感じているときはないのではないですか。そこまできてしまった。問題の所在と解決を指示した、適切な新しいスローガンが出てくるまでの間、現在は「自由のない国に反対!」といっていますが、この言葉は現在別の新しい意味を持ち始めているのではないかと考えました。自由の意味がもっと生存権的な意味をもつというか・・・限られた観察を以て読み解くのはむつかしいですが、常のこととして運動を契機に言葉が多義的になる場を得ます。ただメリハリをつけるために大胆にいってしまうと、「自由」ということばが若い人たちから初めて言われるようになりました。逆にいうと、「自由」をいう人っていままでいなかったと思うほどですよ。(自民党的「自由」に対する警戒がありましたしね、ものを考える人の間では。結局自民党的「自由」は破綻しているのですから)