「言葉と物」のコンパクトな世界 No.5

「言葉と物」のコンパクトな世界 No.5

「『大正』を読み直す」は、日本ファシズムをいかに読むかという課題をもっている。現在の問題を明らかにするために、大衆が昭和ファシズムを担う国民になっていった言説空間が展望されていることは、新聞の書評で指摘されている通りである。天皇ファシズムは終わった。言い換えれば、天皇の知は一応消滅した、国民が新しい文脈で復活させなければという前提で。だが大衆は消滅してはいない。新しく再び精神分析文化人類学の知が大衆をとらていくことになったのである。現在の問題は反知性主義にあるのではなく、寧ろ知に規定された道徳的問題にある。ポスト構造主義実存主義構造主義では十分にこの問題を扱えないと見抜いたからこそ、フーコー「言葉と物」はカントを呼び出したのである。(私の知る限りでは、ロンドンの書店ではポスト構造主義の本たちと並んで「実践理性批判」が置かれる。東京の書店は「純粋理性批判」が置かれる。現在の問題が反知性主義にあると見誤っているからだろう。これでは「国民道徳」に対する抗議の準備を効果的にできるのだろうか。) 戦後民主主義は、戦前ファシズムにときは知が欠如していたので単一価値観が大衆を突き動かしたとすると考えるが、これは間違いである。言説の知のもとに大衆がファシズムの国民となったのだから。したがって現在もこれから、戦前と同じ形ではないにせよ、時代の「知」のもとに、十分に教育のある国民が推進するファシズムが起き得るという可能性を否定しきれないのである。