政治のキャラクター化とはなにか?

政治のキャラクター化とはなにか?

 

漫画・アニメで感心心するのは、顔を創造してみせるというか。凄い差異化の創意工夫がある。世にいう「キャラクター論」について十分に理解してはいないが、文学に依るとどうしても一人のキャラに限りがある。ベケットの凄いところは、それを極限的にゼロにしたことだった(固有名も事実上無い)。文学が終わらせたキャラの語りをだれが始めるのか? 有限性はいかに顔達の無限性に一致していくのか?漫画がキャラクターを生産することによって、ではないだろうか。そうして覆ってくるものに穴をあけていくことができるのではないかという楽観的気分があった。だが、その前に、かつての政治の芸術化、芸術の政治化 に続くような、政治のキャラクター化という悍ましい包摂が始まってしまった。政治のキャラクター化とはなにか?政治のキャラクター化は、どういう嘘によって東京五輪開催を招致したのかという記憶を、「私(安倍)の話」という見かけだけの明瞭さ、すなわち退屈平凡という分からなさへと覆い隠してしまうという包摂なのである。