脱<原発体制>

「二十歳の笑顔」という全国新聞の見出しに、違和感を感じたのはこの私だけでしょうか?2011年から、この国から、笑顔というものがあるという幻想すら消滅しました。‪<原発体制>の物の見方が問題となっていることがわかってきたときに、たとえば、脱<原発体制>というような見方が要請されているとおもってます。危険な原発再稼働に抗議した最初の人々は、同じ間違いを繰り返すなというぐらいのことを訴えて単純に集まりました。それにも関わらず、抗議者の分裂した二面性ー合理性と非合理性ーを深読みする言葉を彼方此方で読みましたね。不快なその二面性は近代主義者の二面性なのだけれどね、まだわからんですか‬。また日本ポストモダンの右翼文化人からは、「思想がない」ときめつけている言葉をききます。「思想がない」と言い切ってしまうような、非合理性を深読みする近代主義へ行ったその"転向"が思想問題を構成する?というか、思想の知識人をすてて文化の文化人になりたがるこの問題ですね