思想と言語

世の中を俯瞰するほど高い所にいるわけではないから、その大きな世界を自身がすんでいる小さな世界に投射して考えるしかない。とすると、たしかに事実を十分に知らずに間違っているということが自分に多々起きる。だけれど考えることをゼロにしている状態は例外的だとおもう。現在の所ゼロを自分に関する原則にしても仕方ない。同様に、世の思考をやめてしまった人々のことを原則にしなくてもいいのではあるまいか?問題なのは、思考しようとしているのに、言葉をもっていないために思考が成り立たない世の中である。そこで思考がイデオロギーに絡みとられていると、また反対に、(「XX...」と指示するだけの)イデオロギー批判に絡みとられていると、思考の発展がない。そういうどちらの場合も、言語が透明になっている(思想において思考する者と言語との関係が問われることがないから透明なのである)。前近代の思想の言葉は近代のそれと比べてそれほど透明とはいえない。単純にこのことだけで私の大きな関心を説明できるかもしれない