柄谷の'交通'はどこに消えてしまったか? ー討議<帝国・儒教・東アジア>をいかに読むか (3)

柄谷の'交通'はどこに消えてしまったか?
ー討議<帝国・儒教・東アジア>をいかに読むか (3)
 
禁書であった「歎異抄」は、近代以降に発見されていくテクストであった。われわれは原初テクストを読むことができない。ただ日本近代知識人達がいかにこの読めぬテクストを読んでしまったかを読むだけだ。「歎異抄」の読みの読みから、近代の言説が曝け出されてくるというのが、われわれに与えられる収穫だ。さて柄谷行人向けた批判も、この彼がいかに読めぬ孔子を読んだかを読み直すことにかかっている。柄谷は「儒教」を定義しない。それを固定された実体として定義する必要がないからだ。つまり、「帝国」という統整原理からは、「儒教」とは、他の思想・宗教(「法家」「老荘思想」「仏教」「道教」)とのいわば互いに重なり合う類似性のネットワークを形成する項の名前に過ぎない。しかしそのような原初的テクストの言語ゲーム的再構成はそもそも知識であり、「信」ではない。が、ここは一応素直に、柄谷が言うことに従って、かれの語りを最後まで追っていこう。そうすると、柄谷は「論語」から、近代の言説が依存する'民衆史'を読みだしているのが分かってくる。民衆史の近代において実現したはずの解放のユートピアを実現していく主体の物語が、討議 <帝国・儒教・東アジア>に貫いていることに注意しなければならない。ただし柄谷的民衆史によれば、どの国家も中心を占めない「帝国」の時代にあっては、国家こそが解放を推進する主体といいたいようだ。そうして国家間の中心なき諸国家の、存在としての共通性もどき世界が「儒教」的統整原理と共に描き出されてくるのだ。ここに、日本知識人の思想のあり方が映し出されている。しかしその「帝国」的存立と新「儒教」のあり方は、現実には、周辺の<帝国主義>的な同一化と経済と知識の一元支配を進める体制なのではないか?台湾学生の行動が真実を証言している。最後に、現実には柄谷の「交換様式」は、述べてきた「世界=帝国」的な起源としていうものとなっている。なにもかも交換様式に還元していく思想の倫理性が問われることはないのか。(終)