柄谷の'交通'はどこに消えてしまったか?ー討議<帝国・儒教・東アジア>をいかに読むか (2)

柄谷の'交通'はどこに消えてしまったか?
ー討議<帝国・儒教・東アジア>をいかに読むか (2)

ライプニッツの「モナド」は'窓'が無い。これが大問題だ。そこで、「モナド」間の'交通'を実現する、任意の一つのモナドが、柄谷がいう「帝国」の'モナド'である。成程これは見事に、'交通'が'窓'に代わるというわけだ。ライプニッツのモデルは西田幾多郎を経て柄谷において完成することになった、と、喜ぶのは早い。柄谷は「日本モナド」については言い忘れたから。この「日本モナド」も'窓'が無いことを好都合に、「帝国モナド」において生じてくる専制政治を見ない。なぜか? <あちら>の専制政治が一層専制化させていく方向が、<こちら>の自らの専制政治(安倍自民党体制)を一層濫用できる方向と一致するからだろう。そうして結局、21世紀には専制政治の内部をもつ、陰険に暗黙に助け合う二つのモナドがわれわれの前に現れてきた。具体的には、<あちら>の'帝国'の発明と<こちら>の歴史修正主義、この両者は、東アジアにおいて互いに切り離しえない関係を展開している。しかし"交通'とは本来そういうものか?柄谷はライプニッツと西田を呼び出したけれど、それは、国家と国家との関係を打ち立てる「統整原理」だけのための言説。ここからは、多様的東アジアにおいて平和に生きようとする人々がいかに交通を打ち立てるのかがみえてこないのだ。その意味で、真の交通を問う可能性をもつのは、台湾学生の<太陽花運動>の方かもしれない。この占拠運動(オキュペーション )の流れを汲んだ街頭民主主義の意義に、私は注目しているのだ。