「<大正>を読む」からの問題提起 ー ' 鎌田慧ははたして大杉を読んだのか'

「<大正>を読む」からの問題提起

' 鎌田慧ははたして大杉を読んだのか'。大杉栄の人柄的魅力を語ることを中心にしていて、思想を明らかにしているとはおもえません。「無類の人」に先行して、「無類の思想」が存在します。大杉栄の思想の痕跡から、書き手がいかに大杉を読んだかを民主的に知ることができるのです。ところが鎌田の評伝は、講談的な角田房子と同様に、ただ甘粕事件の中の大杉を深めているだけならば、敢えて言います。つまりそれは、国家が殺害したあとに国家が捏造した物語に沿って大杉を再び殺害しているに等しいと言わざるを得ません。国家が殺害した大杉の思想はなにか?それは労働者に語ったこの言葉に書かれているのではないでしょうか。
「しかし、人生は決して定められた、すなわちちゃんと出来上がった一冊の本ではない。各人がそこへ一文字一文字書いてゆく、白紙の本だ。人間が生きてゆくそのことがすなわち人生なのだ。労働問題とはなんぞや、という問題にしても、やはり同じことだ。労働問題は労働者にとっての人生問題だ。労働者は、労働問題というこの白紙の大きな本の中に、その運動によって、一字一字、一行一行、一枚一枚ずつ書き入れていくのだ」(第一次「労働運動」第6号、1920年6月)。
ここに主張されているのは、子安氏がいう大杉と幸徳の直接行動論の理念性です。そして、たとえこの二人が知られていなくとも、大杉と幸徳の理念は、「ノンセクト」の自発的な運動の主体性ーたとえば21世紀の香港、台湾、ニューヨークの抗議運動ーにおいて現実化しています。21世紀のグローバルデモクラシーは「白紙の本」に一字一字、一行一行、一枚一枚ずつ書いています。