この五年間のあいだ、25名程の思想家たちの仕事 (江戸・明治・大正・昭和前期と後期・平成)を通過することになったが、それはなぜなのか?

「私は概して、映画のそこが好きだ。説明不在の、光に浴たす、壮麗な記号たちの飽和」(オリヴェイラーがゴダールに言った言葉)

 

▼映画の歴史において目撃したことは、消滅しつつある映画が詩に移行していくことになったという歴史であった。つまりイマージュは言葉の力へと移行したのだ。これと同様に、魂というものが消滅するのは、それが言葉の理念に定位することによって、なのだ。そういう意味で、魂が永遠に存続すると教えてくる「救い」をともわなくとも、「信」は可能だ。この思想は三百年かかって獲得したとおもう。祭祀国家として近代化した日本のあり方(限界)をいかに乗りこえていくのか?戦争神社の問題は近代のあり方を問う問題なのだ。言い換えると、近代の問題は信を問う問題なのだ。これをかんがえるために、この五年間のあいだ、25名程の思想家たち(文学者を含む)の仕事を通過することがどうしても必要だったのだ。▼江戸; 伊藤仁斎荻生徂徠本居宣長平田篤胤、(会沢正史斎)。明治; 福沢諭吉清沢満之岡倉天心、幸徳取水、夏目漱石。大正; 大杉栄吉野作造、河上筆、津田左右吉大川周明。昭和・平成; 和辻哲郎三木清西田幾多郎北一輝竹内好丸山真男大江健三郎小田実吉本隆明柄谷行人子安宣邦。近世と近現代の間の断絶を埋める中継点に、どうも和辻哲郎がいるらしい。