ヨーロッパの文学を日本から読むことはなにを意味するのか?

アイルランドに8年間もいたのに、今回のことに関して、アイルランドからの視点で書いていない自分自身に苛立ちがありましたから、アイリッシュの言葉がストーレートに自分に突き刺さりました。中近東のイラクに軍事介入するアメリカによってアイルランドの中立が事実上崩されてしまった憤りと危機感のなかで、このアイリッシュも自身にこのように言うことによって自己が依るアイルランド人性を絶えず発明していくという意志があるのだとおもいます。それにしても、われわれがかれのこの言葉を聞くと、なにか綺麗ごとの楽観的な感じがするのですけれど、これに関しては、われわれ日本人が他国を植民地化した過去をもつ罪悪感が、アイリッシュの言葉をよむときにそこから違和感を覚えるのかもしれません。アイルランドの経済はEUの1%。しかし貧しくともアイリッシュは植民地化した歴史がないので他のヨーロッパの国々にくらべて未来に希望を感じている、とデクラン・カイバードは指摘しています。ちなみに、この希望は、苛立つスティーブンのキャラクターに描かれている可能性があるのですが、必ずしも丸谷才一がこれを汲み取って「ユリシーズ」を訳しているとはおもえません。ほかならない、この違和感に、アイルランドを舞台にしたヨーロッパのテクストを日本から読むときにどうしようもなくあらわれてくる距離があります。つまり他者の痕跡である、消し去ってはならない距離のことです。ヨーロッパの文学を日本から読むことはなにを意味するのか? またこの距離の問いが、アジアからみるとどうなるのか大変気になるところであります。


「考えてみてください。そもそもなぜ、日本人がイスラム国に殺されなければならなかったのでしょう。私はアイルランド人ですが、アイルランド人は一人も殺害されていません。なぜなら、アイルランドは中東諸国のどこかの国や勢力に肩入れすることをせず、戦争にも参加していない。軍隊も送らず、シリアも攻撃していないからです」(イギリスのメディアが紹介したアイリッシュの証言)