近代におきてくる、近代からしかおきてこない, ナチスのファシズムと天皇ファシズム

 

近代の西欧世界の奴隷制度とは、資本主義の本源的蓄積のために行った収奪のシステムです。ポストコロニアリズム系の研究のなかには、ナチスホロコーストは米国の黒人奴隷貿易植民地主義といかに似ていることをいう指摘もあります。<ファシズム>の根底に、<近代>の植民地主義的抑圧をみるのですね。私は8年間、大英帝国(イギリス)の植民地だったアイルランドにいましたから、まるごと全部ではないですが(どんな言説も政治的に語られることも真実ですからその部分に無垢であることは許されません)、この見解に、あるリアルティーを感じます。さて近代日本をみると、西欧世界に対等であることが決定的な'勝利'を意味し、それだからこそ、植民地をもたない近代化はゼロに等しいという過大な国家意識に囚われていたことはたしかなのです。具体的には、この国家意識は日比谷公園焼き討ち事件から満州事変へと膨張していったナショナリズムのことです。そしてこの明治末から大正を経て展開した日本帝国主義の方向は、昭和ファシズム言論の自由を抹殺していく翼賛的な方向、"戦う国ために死ぬ'という国民道徳の方向、日本人を心の中から洗脳していく'至誠'の方向、そして敵を殺して死んだら靖国に神として祀るから安心して戦場へ行けという国家祭祀の方向と、一致することになったのです。2015年の現在、危機感をもった平成天皇が大東共栄圏の戦争を満州事変に遡らせて語っていることにはそれなりの根拠があるといえます。海外の日本に対する高まる危機感のなかで、外部の眼、ヨーロッパの眼からみると、日本は戦争を終わらせようとはしていないとみえるのです。だからこそ西ドイツからきたメルケルは東アジアの平和的解決をいう相手がまず日本であることの意味をかんがえることが非常に大切であろうとおもっています。