「言論を伴わない活動は、いわば、その主語を失う」(アーレント)

「言論を伴わない活動は、いわば、その主語を失う」(アーレント)

科学者Xと科学者Yのもとにパリから手紙が届く。ブレヒト第三帝国の恐怖と貧困」の中の「物理学者」で描かれているふたりの物理学者に、アーレントが言うような知識人の沈黙したグロテスクな姿を観察することができよう。力 (テンソル)の政治学と呼ぶべきものが知識人たちをとらえてしまったら、いかにそれを巻き返すことが不可能となるのかをブレヒトは示そうとしたのである。21世紀のグローバル資本主義時代のファシズムとは何だろうか?東京演劇アンサンブルの芝居を三十年近く見続けてきた渡辺一民氏(フーコ「言葉と物」の訳者)が生きていたら、ブレヒト第三帝国の恐怖と貧困」をどのように見ただろうか、何を言うだろうのか。われわれはファシズムについてかんがえているときに、実は、ファシズムそのものをかんがえているのではない。このことを理解するためには、例えば、画家がモデルを描くときのことを思い浮かべてみよう。画家は、モデルがモデルである条件、すなわちモデルとともに画家が存在している状態を決して描くことはない。(つまり自分の姿を絵に示さない。前衛的な?ヴェラスケスの「侍女の間」のようには。)しかし鑑賞者が見ているモデルというのは、ほかならない、画家がみているモデルのことだ。問題にかえると、われわれはファシズムをかんがえているときに、ただファシズムをかんがえているのは、近代がファシズムを語っているという語り方を隠蔽していることによるだけなのだ。ファシズムは近代からしか起きてこないが、近代は、ファシズムを近代とは無関係な、偶然起きた間違いの如く説明する。が、果たしてそうか? 近代は自らを正当化するために、近代自身の問題を、全部ファシズムの側に押しつけてしまうことだってできたのかも?それに対してポストモダニズムが暴きだした近代の姿は、ヨーロッパ中心主義の姿である (’先生のお望みは本当の物理学ではなくアーリア的な風貌をそなえた認可ずみのドイツ的物理学'。ブレヒトの「物理学者」より)。またポストコロニアリズムが暴きだした近代は、資本主義的蓄積としての同化主義的植民地主義 である('この連中のお望みは、国民が、偉大にして畏怖される、敬虔にして従順この上もなき国民になることだ” 。ブレヒトの「国民共同体」より)。ちなみにファシズムの体制は戦争経済を自立化させるが、それは必ずしも戦争とイコールのものではない。では、ファシズムファシズムとなるのはいかなることを指していうのであろうか? “君たちが駆り立てられて行く戦争は君たちのものではない。「いやだ」というものはいないのか” とブレヒトが警戒したのは、言説の文化権力にたいしてであった。つまり、君たちは、敵を一人でも殺して来て死んだら神として祀られるのだから戦場でも安心だという、戦争は君たちのためのもの、君たちが君たちの場所へ帰るためのものと教える言説のことだった。そうして総統が言う'科学'の言説とは、理性そのものの限界をいう言説であった。民族はどこからきたのか、どこへ行くのかを教えた 'アーリア的科学' の教説にたいしてであった。この言説の内側に絡みとられたら、理性とは正反対の方向に、理性的であるか理性的でないかその両方が成り立たないような、理性そのものを無意味にあつかうほどの破壊の衝動に一体化する道しかなくなるだろう。ファシズムとはなにか?とりあえずの答えとしてはこれだけは言っておきたいとおもう。ファシズムが依存する'理性そのものの限界'は、ファシズムが<ドイツ人は、日本人は、どこからきたのか、どこへ行くのか>ということを(理性的に) 証明できないことを主張している事実によるだけである。やはりそれは、最悪の、国家の塊としての力の自己自身に対する関係、自分自身に影響する能力、自身による自身の情動のあり方なのであるが。何にしても、ファシズムの再定義が必要なことはたしかだ。