われわれが本を読んでいるときに、まさしくこのときに、本がわれわれを読んでいるのはなぜなのか?

ファシズムの問題は考えなくてよいのでしょうか?

1930年代のファシズムは、貧困の拡散と単一的価値観の集中から生じました。21世紀においてファシズムの再来は心配しなくていいのは、戦後のいわゆる高い教育水準でそれなりに価値観が多様となったからなのでしょうか? しかし再び貧困の拡散が起きている現在、その解決が貧困問題の解決だと考えさせないような単一的価値観の押しつけが上から起きているではありませんか!?これでは、貧困問題の根底にある格差問題と、それを規定しているかもしれないグローバル資本主義の問題にたいし効果的に取り組むことがほんとうにできるのでしょうか。

われわれが本を読んでいるときに、まさしくこのときに、
本がわれわれを読んでいるのはなぜなのか?

もし小泉の息子がフリードマン「資本主義と自由」を読んだら?しかし、その前に、都合よく読まれている市場の本がその自民党政治家を読んでいます。これとは一見正反対の方向で、やはり都合よく読まれている「資本論」が最近の柄谷+佐藤優コンビを読みはじめたように。市場をたたえる似非<実証主義>の言説は前者を監視し、帝国をたたえる似非<民族主義>の言説は後者を監視するという違いだけで、両者の言説こそは求め合う敵同士で、なんとみえない地下で、現状維持を好むという方向で互いに補完し合っているとしたら?最悪と言わざるを得ません。こんなんじゃあね、折角、ピケティがわれわれに、貧困問題の解決は格差問題の解決にあるといくら警告してくれてもね、豚に真珠とはこのこと。われわれが本を読んでいるときに、まさしくこのときに、 本がわれわれを読んでいるのはなぜか?という例ではないでしょか。答えは、だれもが自分に都合よく解釈しているときだから。んw?読む人の心(観念)をうつす鏡の本?