シドニー湾のオペラハウスはまだ建設中だった...

 

日本人が商社の家族を中心に五百人ぐらいしか住んでいなかった、白豪主義の時代に子供時代をすごした。シドニー湾のオペラハウスはまだ建設中だった。4年間のアルバムをひらくと、あらためて、通っていたパブリックスクールが白人だらけだったことに驚く。アルバムをめくっていくと、戦争の記憶で反日感情の強い人々から友人の誕生パーティーから追い出される大事件が繰り返しあっても、<他者は自己の鏡>という言葉があるように、自然に?自分をかれらの側に位置づけていたことが思い出される。しかし時々帰り道に警官たちに立ち止まれと命じられることがあった。非常に怖い思いをした。当時は警官がオーストリア現住民の子供たちをその場で捕まえてそのまま絶滅施設に送ってしまったのである。(そういうミッシング・チャイルドは10万人いた。アメリカもインディアンの子供に同じことをしたことをこのビデオで言っている。) 記憶の中で友人のお母さんが警官に事情を必死に説明している(この子の親は外交の仕事できた日本人だとかなんとか説明したのだとおもうが。) 「帰国」という言葉を使わないからここでは'シ...ドニーから東京へ行くとき'と書くのだけれど、オーストラリアを離れる年は、当時の友人たちのなかにはベトナムに行って兵隊になるというものが現れてとなんとも陰険な嫌な雰囲気になっていた。かれらの視線。北爆のニュースが日常を覆う。いまおもえば、敵であるアジアへの視線の類だったのか?お別れの最後の日に教室で、帰る国がどこにあるのかを示せといわれて黒板で描いたのは中国だった。慌てた担任のミセス・ウェブにすぐに正されたが、それまでは交通渋滞の国、日本という国が中国の真ん中ぐらいにあるのだろうぐらいの関心しかなかった。教室でテレビ中継された、アポロ11号の人類が到達した月から見れば、それが地球のどこにあろうが全く大した問題ではなかったしね。それよりも、思い出のプレゼントとして、お隣さんの労働党の大工さんの子供から貰った、砂漠の原住民の写真集が衝撃的だった。この映像たちにとらわれた。計画化された都市のまわりを見渡してもかれらは存在しないのだ。自分たち白人(!)はなんと罪深い排除を行っているのだ!とおもったものだ。記憶のなかでは、よく面倒をみてくれたユダヤ人の金持ちだが孤立していた大家の女性の涙が止まらないのが不思議におもっている少年の姿がある。おもいだしてくれるようにと、道路にワニの絵を描き残した。年齢的にバイリンガルにならなかった。英語が消滅し日本語が現れる空白の二年間。この二年間は、言葉がない二年間なので思い出せない言葉にならない厄介な二年間なのだ。こちらの先生が黒板に英語の綴り字で自分の名前を書いたときどうしてわたしがそれを読めないのか不審がったものだ。(くずした筆記体などは現地の学校では習わないから普通は読めないんだけどね)。アルファベットのなかにしか自分の名前がなかったのに、まさにこのアルファベットのなかで自分の名前を喪失したという屈辱の思いがあった。歴史的に言ってただ白人との関係で成り立った、こういう屈折した体験はこの国で理解されることはない。この国は明治以来の大学のカリキュラム大がそうだけれどもヨーロッパ中心主義なのだ。とくにヨーロッパ中心主義のインテリたちはアジアのヨーロッパ、オーストラリアに関心がない。ヨーロッパ人の頭でいかにマルクスを読むのかという無理な課題にしか関心がない。しかしアイルランド人ならば理解できる。'黒い白人'と蔑まされてきた、ヨーロッパの内部でありながらアフリカの国にように植民地化されたアイルランドの人々は、イギリスの絶滅型同化政策のもとでサバイブしてきたのだからね。最後に、柄谷行人「世界史の構造」が嫌いなのは、ポストコロニアリズムのテクストならば必ず参照されるような、アイルランドの記述がないことなんだね、たぶんそうだ。