成田龍一さんの説がズバリ指摘するように、大正デモクラシーが戦争を止められずそれどころかむしろ共犯的に戦争と連続していたとしたら、なにを考えなければならないのでしょうか?

 

成田龍一さんの説がズバリ指摘するように、大正デモクラシーが戦争を止められずそれどころかむしろ共犯的に戦争と連続していたとしたら、そんな大正デモクラシーに平和を志す戦後民主主義が理論的に依拠しても仕方ありません。ここは、現実にあるものがなにもかもうまくいかなくなりましたから、成田さんの説も知っておくべきだとおもいます。そして平和を実現する他のモデルを新たに構築すべきです。例えば、'異議申し立て'の小田は神戸大震災の取り組みから非常にラジカルになりました。小田実は、語る民主主義モデル、‘大きな人間'をただしていく'小さな市民'のモデルをいうのです。ギリシャの民主主義が参照されています。ただし実際にはギリシャの時代は戦争が絶えず起きました。問題があります。だから小田は、戦争なきギリシャ民主主義的なあり方について理念的に考えていたというべきでしょう。この小田の市民概念は、1990年代からのアンチ・(ネオリベ)グローバリズム運動を契機に再びあらわれてきた白紙の本のような主体概念と深い関係があると考えています。(念のために、小田が言う'小さな人間'は、「市民ケーン」で描かれているような選ぶ民主主義の市民、'大きな人間"とは異なります。そういう"大きな人間'の権力はローマのネロを選んでいく専制政治に遡ります。つまり自民党的に'選挙で勝ちさえすればなんでもゆるされる'とした統制の手段となっている民主主義)

 

 

以下はインタビュー記事より

 

 

 


なぜ戦争を止められなかったのか 

 

―― ここから、「大正デモクラシーはなぜ、戦争を止められなかったのか」という本題に入っていきたいと思います。デモクラシーが盛り上がっているなかで、どうして戦争に向かっていったのでしょうか。

 

一般的には、「大正デモクラシー」が「帝国のデモクラシー」であったからといえます。「大正デモクラシー」は大日本帝国憲法下のデモクラシーであったが故に、弱さと限界があり、ファシズムや戦争を止められなかったということです。大日本帝国憲法のもとでは、主権は天皇にあり、議会は天皇を「協賛」し、内閣は天皇を「輔弼」するものとされています。「大正デモクラシー」の理念としての民本主義は、そのことを前提にした民衆による、民衆のための政治要求だったのです。いわば、解釈改憲のようにして、民衆に寄った大日本帝国憲法解釈が「大正デモクラシー」でした。そのため、日比谷焼打ち事件も排外的な要素をきっかけにしていますし、植民地朝鮮の独立を要求した3.1独立運動には民本主義者も批判的でした。いや、そもそも植民地の存在を自明のこととしており、そのもとでのデモクラシーでした。要のところが、弱いデモクラシーなのですね。

 

そうしたことのゆえに、多くの論者は、1931年の「満州事変」を「大正デモクラシー」の終りと捉えています。民衆意識が排外主義に向かい、侵略の動きがこれ以降始まったという認識です。実際、大正デモクラットの多くが(無産政党の人びとも含め)、この動きを支持していく事態となります。

 

このことを別の言い方をしてみると、1920年代と1930年代の間で断絶があるとする「断絶説」ということになります。「大正デモクラシー」が崩壊し、戦争の時代に突入したという認識ですね。これが歴史学のなかでも、一般的な把握だと思います。

 

しかし、私は別の説を考えています。いうなれば「連続説」です。1920年代と30年代は連続していると考えています。

 

どのようなことかというと、「大正デモクラシー」は確かに帝国のもとでのデモクラシーであり、その弱さを抱え込んでいました。しかし、この「大正デモクラシー」の時代に、前半期から後半期におよんで、基本的には「民衆」の意見を吸い上げなければ回っていかない仕組みを体制的に作り上げていきました。「民衆」を制度的に入れ込むシステムです。普選のもつ歴史的意義にさまざまに限定を付けましたが、しかし、「民衆」を「国民」として扱っていかなければならない時期がやってきたということです。秩序を保ちながら政治を遂行していくためには、あくまでも「国民」の意見を後ろ盾にしなくてはならない、というシステムの定着です。

 

このことは、デモクラシーの機運のなかで制度化されたのですが、いったん制度化されるや、「国民」の意向をないがしろにすることができなくなります。ありていにいえば、「国民」の意向が変わっていくと、当然、政治の方向も変わっていきます。1931年の「満州事変」によって、「国民」の意見や要求が排外的になった、そのゆえにあらたな方向に舵を取り、ファシズムという事態に入り込んでいった、というのが私の見解です。1920年代の「成果」が、1930年代の事態をつくりだしたという「連続説」です。

 

つまり、ファシズムが無理矢理に「国民」を引きずり込んだのではなく、人びとの考え方が排外主義に傾いて、「満州は自分達の領土だ」と思い、そのことをとりこむことによってファシズムが成立していく、ということです。「大正デモクラシー」の過程で成立し、人びとの意見を吸い上げるシステム(その制度化が、普選ですが)によって、戦争の時代になったと私は考えています。「大正デモクラシー」があったが故にファシズムに向かい、戦争の時代になったのです。

 

 

―― 「大正デモクラシー」は戦争を「止められなかった」のではなく、むしろ戦争を進めるのに加担していったわけですね。

 

大正デモクラシー」を前提として、あるいは踏み台として、戦争に入り込んでいったということですね。「大正デモクラシー」を考える際に、象徴的な事例があります。「大正デモクラシー」の代表である吉野作造は、民本主義をとなえ、当時の言論をどんどんリードしていきました。吉野は民意を吸い上げ、政策に反映させることを目標とし、大日本帝国憲法の枠のなかで、ギリギリの解釈をしました。そして、後半になると吉野作造の教えを受けた「新人会」の人たちが、さらにラディカルな主張をしていきます。

 

そんな、「大正デモクラシーのチャンピオン」とも言える吉野作造には弟がいます。吉野信次です。吉野信次は、農商務省、さらにそこから分割された商工省の官僚として重要な働きをしますが、信次は民意を取り込まないと政策統治も上手くいかないと考えていきます。

 

つまり、兄・作造は「民衆」の側から民意をくみ上げる必要性を主張し、弟・信次は支配の側から民意を取り込むことを考えたのです。この両輪こそが「大正デモクラシー」の本質であると思います。この兄弟は仲が良かったと言われていますが、後世からみたとき、兄弟でお互いを補い合っている関係があったと言えるでしょう。

 

吉野信次らは、のちに「新官僚」と呼ばれ、さらに「革新官僚」へとつらなっていきますが、戦時の民衆動員の体制をつくりあげ、ファシズム体制を作り上げる担い手の重要な部分になっていきます。ファシズム体制―戦時総動員体制を担った革新官僚は、この文脈に引きつけていえば、吉野信次の系譜ということがいえます。ファシズムというのは、民意をいかに引き付け、主体的な営為をおこなわせ、コントロールすればいいのかということを、たっぷり学んだ人達によって行われていたということです。民意の重要性を知る人によってなされたのです。つまり、「大正デモクラシー」があったために、吉野信次や革新官僚が出てきて、戦争の体制が出来上がったということができるでしょう。

 

ですから、「なぜ大正デモクラシーは戦争を止められなかったのか」という問題の立て方自体を疑うことが必要ですね。

 

そう考えると、どこを「大正デモクラシー」の終りにするかが、あらためて問われることになります。難しい問いですが、私は、1933年に終了したと考えています。33年は、プロレタリア文学の代表的な作家である小林多喜二が拷問によって虐殺された年です。この年を境に、社会運動から転向する人が増えていきます。社会運動からの人びとの離脱、さらに転向する人びとの存在によって社会運動が衰退する以上に、その質が転換します。すなわち(体制への)抵抗の運動ではなく、(体制への)翼賛の運動になり、さきの新官僚革新官僚がめざす方向と一致します。こうして体制の側も社会運動の側も変質し、背中合わせの調和のもとに総動員―体制の時代がやってきました。