言論の自由を尊重しない大学と書店は批判されなければならない。このとき批判の仕方も大切だとおもう。言論を通じてどういう思想を言うか、である。

政治テーマのシンポジウムにたいして大学がホールの使用を禁止したり、書店が民主主義テーマのブックフェアを中止したりすることはたしかに見逃せない問題だ。言論の自由を尊重しない大学と書店は批判されなければならない。このとき批判の仕方も大切だとおもう。言論を通じてどういう思想を言うか、である。だから例えば人気ある新聞コラムニストが「徳川時代みたい」といえば決定的な批判を言ったつもりになっているとしたらその表現された思想の貧困に正直がっかりさせられる。徳川時代においては言論の自由がなかったことは、支配身分の武士に属さない人々のギリギリ書いている批判的一文を読んで察することができる。真相は新聞コラムニストの想像を遥かに超えて言論の自由に対する統制が厳しかったのだ。しかし後期近世には、人間を問うた、伊藤仁斎をはじめ思想の活発な交換が存在した。ここを見落としてはならない。現代日本はヨーロッパと比べては貧弱ながら、だが一応大前提として制度的な言論の自由はあることはあるが、問題は後世の人々が依拠できるほどの、自発的に行う思想の活発な交換があるのかどうか?ついでながら、現代中国は言論の自由が保障されていないが、そこでギリギリ政治批判を展開している知識人たちを孤立させてはならないとおもう。アジアで起きてきた人間と民主主義の思想にできるだけ関心をもつこと