自由を言う言葉と意志

このままではファシズムになるよと危惧する言葉を読むと、もうファシズムになっている事態にまだ気がつかないのかと呆れてしまう。国会前の抗議に行って、全体主義反対!と叫んだら孤立するか囲い込まれてしまうかもしれないほど日常の隅々まで、自由を言う言葉と意志が危険視されているという有様なのに。(ただし自由を言う声が、叩かれている女性たちの間からやっとあらわれてきたということもきかれる。) 他方で、ファシズムだ、ファシズムだと連射する言葉を聞くと、そう安易になんでもかんでもラベル張りすると、かえって本物のファシズムを見逃すことにならないだろうかという心配も起きる。近代の祭祀国家として成り立ったこの国のファシズムとは、必然として、天皇ファシズムのことでそのほかはないのだから、これを抑制しているかいないかが大切な判断の拠り所となるのだとおもう。たとえ憲法が言うようには完全な政教分離となっていなくとも、戦前の天皇ファシズムとの連続性が実質的に断ち切れていればよかった。しかし現在日本会議という厄介なものが出てきたことに警戒する。議会制民主主義の外部から、大和国家の存在をいう文化言説がその連続性をいまから政治的に回復してしまうという危険が全然ないとは言いきれないだろう。グローバル時代の新しい全体主義の再定義が必要。また自衛隊を国外に出してはならないとか戦争についてフォーカスして語らなければならないときに、ファシズムのことを語っていては大まかすぎるんだと思う。