カラヴァッジオ、レンブラント、フェルメール、とつづいて、明日からは、ベラスケスへ行く

映画館のなかで子供のときに惹きつけられた映像とは、メリーポピンズの空飛ぶ「傘」でも、チキチキバンバンの水に浮かんですすむ「車」でもなかった。東京を舞台とした007の「忍者」ではありえなかった。私の唯一の映像は、キューブリック2001年宇宙の旅」のラストシーンで宇宙飛行士が立つバッロク風インテリア空間だった。煌めく闇というか、内部空間というものの美しさをどうしようもなく感じてしまったのである。だから、ということもないが、この本の表紙の絵(宮廷衣装で飾られた女性)をみて、宇宙の広大な闇に佇む宇宙飛行士の姿を重ねてみるのはわたしだけだろうね(笑)。そもそも映画館のなかに浮かぶスクリーンというのは、光と闇が戯れるどこかバロック的な内部空間の様相がある。だからテレビの光の威厳をもって聖人ウルトラマンたちが次々と空から現れるとき、いかに天が倫理的な天蓋であるのかと教えられることになったが、ただどうしてもかれらが私が見た映画スクリーンの宇宙の闇から来たとは信じられなかったものだ。伝達することを目的としたテレビには、説明できない孤独な闇というものをゆるすスペース(余白)がないのだ。オペラはバロックの時代からしか現れなかったのはなぜなのか?この問いが反復してわたしをとらえて離さない。カラヴァッジオレンブラントフェルメール、とつづいて、明日からは、ベラスケスへ行く