フェルメールとジョイス

フェルメールとジョイス

洋の東西を問わず、広く木版印刷活版印刷術が普及する以前、本は筆写するものであった。中世ヨーロッパにおいて写本はキリスト教の修道院を中心に行われたのである。エーコ薔薇の名前」の映画のなかで、「解釈するな、ただ書き写せ」と命じられる学問僧・修道僧が本を筆写している姿がでてくる。なんでもかんでも解釈しなくてはならない現代からすれば解釈しないことはさぞ苦痛だったのではないかと思われる。が、原初的テクストにたいする崇拝が書かれた言葉を神聖な言葉として書き写させたのであろう。中世の絵、僧侶の筆写している姿の絵を、下のラブレターを書く世俗の女の絵と比べてみたくなるというものだ。僧侶の書く姿に、自然との関係が指示されているわけではない。肉眼ではとらえきれない理性の抽象的照明をなんとかこじつけて読み取れる。窓から差し込む自然光も、部屋の中でその光の中に侵入し拡がっていく闇もまだ存在してはいなかった。フェルメールの女性で表現されることになったのは、鑑賞者との親しい関係におかれる、繊細さに溶け込む、イヤリングにおいて際立つ煌めく闇であった。だがこの近代の絵に至って失われたものはなにか?言説のゲームがいかに変わったのか?文字を書く姿を描いた絵画から、文字そのものが消えることになったのである。ここで、「ユリシーズ」の教理問答の文体でかかれた「イタケ」挿話Itacaをどうしても思い出すのである。「イタケ」挿話のナレータの最後の言葉は、Where?であった。この最後のWhere?という言葉は実は、「ぺネロペイア」挿話の最初、すなわちモリーの眠りの独白世界の入り口で発せられた最初という位置をもっている。午前二時半、寝室のモリーが眠れない状態が続くとすれば、ではかわりにだれが眠ることになるのか?語っていた書かれた言葉が終わるところで、語ろうとする声が始まる。そのとき寝室で眠るのは文字である...