日本の哲学者の問題

別に新聞やそのほかで発言していることにケチをつけるつもりは全然ないし、その活動には敬意を表するのであるが、福島と沖縄の問題をいう日本の哲学者は、哲学者がいかに考えるのかということを読者に教えてくれないのは何故なのだろうか。日本の哲学者は、哲学から離れて、専ら心情の問題として語るのである。こういう話が昭和思想史研究会の居酒屋での談義ででてきた。後日の私の考えだが、これと比べて、ゴダールパレスチナの人々の心情に入りこまない。あまりにも曖昧だとしてこの捉え方には批判も多いのだけれど、パレスチナ問題をいうときあえてそれを映画の問題として構成してみようとするのである(ドキュメントとフィクションの問題)。なぜだろうか?映画バカだからか?否、そうではないだろう。恐らくは、映画から離れては、問題を開くことができない、(したがって政治家と専門家だけが語る問題のままである)と考えているからではないか。ゴダールは哲学者ではないけれど、日本の哲学者と比べたら遥かに哲学的な方法論的自覚をもっている知識人だとおもう。ゴダールは映画を依拠できる思考として措定してきたのだから映画から接近するのだ。もちろん限界にぶつかる。その限界から知識人の語りが始まることになる。他方で日本の哲学者はデリダのポスト構造主義の哲学を依拠できる思考としては信頼してはいないのか。福島と沖縄の問題を語るときポスト構造主義の問題として語ろうとはしないのだろうか?