文明と文化 ー テリー・イーグルトンの記事(2008年)を読んで


文明と文化

あるユダヤアイリッシュの皮肉の言葉を思い出す。リムリックで最大の幸福に感じるときは車サイドミラーに映る「リムリック」の標識文字が無限小になるときだという。同じように、大阪を楽しむようになったのは大阪から遠く離れたときからだったとある方からきいた。たしかに私もアイルランドから英国に入ったときは嫌な思いを毎日したが、ロンドンを去ってからロンドンを素晴らしいと思えるようになった。リムリック、大阪、ロンドンがなぜ、苦しいのか?それはそこに文化 cultureがあるからだ。文化とは、習俗に根ざした仲間意識、集団の感情、自発的に起きる、思考に根差さない非合理性の集合だ。外部の者は、言語とアイデンティティと宗教から成る文化に疎外感を感じる。ではなぜ楽しめるのか?それは文化が文明civilisationに依るからだ。文明とは、文化と正反対に、合理的で物質的な安心感、個人の自立性、自己自身を探求するアイロニーの集合である。テリー・イーグルトンによれば、無矛盾に!文明あるところに文化がある。両者は共存してきたのだ。問題は、グローバル資本主義の今日、排他的に自己の起源を主張する文化が、多様性の主張を超えて、文明を抹殺するほど野蛮になってきたことにある。そういう野蛮として、古事記(安倍自民党の側の読み)と孔子(中国共産党の側の読み)を国家祭祀的な解釈に沿った読むがある。原初的テクストの恣意的な読み方に、互いに<他>を憎む国家が現れ、同時に自由に喋る権利が無い国が現れる。東アジアの平和的共存は嘗て全体主義日本の軍国主義が破壊したが、今日それを破壊するのは、歴史修正主義者である東アジアのリーダー達、国家プロジェクトの文化多元主義なのだ。文化という新しい野蛮の形態が、東アジアだけではなく全世界に起きてきた。戦争法自衛隊が明日行く、西と東の対立を記した地図が地球を覆うようになった。だが文明はどこに消滅したのか?文明は、新たに政治多元主義の理念に定位することになるのではあるまいか

 

The real sense in which culture since Williams's death has become more ordinary has little to do with Dante or Mozart. One of William's key moves was to insost that culture meant not just eminent works of art, but a whole way of life in commonn; and culture in this sence - language, inheritance, identity, religion - has become important enough to kill for. Dante and Mozar may be elitist, but they have never blown the limbs off small children.

These days the conflict between civilization and barbarism has taken an ominous turn. We face a conflict between civilization and culture, which used to be on the same side. Civilisation means rational reflection, material wellbeing, individual autonomy, and ironic self-doubt ; culture means a form life that is customary, collective, passionate, spontaneous, unbreflective and ariational. It is no surprise, then, to find that we have civilisation whereas they have culture. Culture is the new barbarism. The contrast between west and east is being mapped on a new axis.

 - Terry Eagleton, "Culture conundrum', 21 may 2008, The guardians'