ゴダールの映画批評の意義

「私が映画の世界のなかでひとりぼっちな感じがするのは、書くために、つまり鉛筆を手に取るために、写真を必要とするような人を一人も見つけることができなかったからです」(Godard)

あるユダヤアイリッシュの皮肉の言葉を思い出す。リムリックで最大の幸福に感じるときは車サイドミラーに映る「リムリック」の標識文字が無限小になるときだという。同じように、たしかに私もアイルランドから英国に入ったときは嫌な思いを毎日したが、ロンドンを去ってからロンドンを素晴らしいと思えるようになった。アイルランドとイギリスが苦しいのはなぜか?それはそこに文化 cultureがあるからだ。文化とは、習俗に根ざした仲間意識、集団の感情、自発的に起きる、思考に根差さない非合理性の集合だ。外部の者は、言語とアイデンティティと宗教から成る文化に疎外感を感じる。文化とはゴダールがいう文字が定位する物語のシステムである。ではなぜ楽しむことができるのか?それは文化が文明civilisationに依るからだ。文明とは、文化と正反対に、合理的で物質的な安心感、個人の自立性、自己自身を探求するアイロニーの集合である。文明はゴダールがいう映像と音の力である。文明あるところに文化があるように、映像と音があるところに文字がある。両者は多様性をもって共存してきたのだ。ゴダールサイレント映画を称えるとき、かれは映画の映像をエクリチュールの運動として捉えようとする考えをもっている。さてゴダールの問題は、排他的に自己の(委託された)固有性を主張する文化 (文字)が、文明(映像と音)を抹殺するほどカオスになってきたことだ。例えばそういうカオスとして、ゴダールはハリウッド映画のシナリオのシステムを指さす。物語のシナリオは聖書と同じ起源をもっているという。そしてこのときゴダールデリダのように聖書のあり方を解釈している。ここでとりあえず聖書のこの二つの文を読みとき、「文字」の侵入に怯える「息」の魂の姿がみえるようだ。Il souffla un souffle de vie (命の息を吹き入れられた)。La lettre tue, mais l'esprit vivifie (文字は殺しますが霊は生かします)。だが原初テクストで言われることの意味内容を言うことは無理であり、ただ近代的な解釈からのみ、「息」「霊」でいわれる本来的なものを「声」と読めることに注意しよう。ここからデリダが問題にしたルソーがいう声の共同体の構造ー文字を劣った二次的なものとしかみなさない近代の言説ーがみえてくる。声の共同体は'文字は殺す'と語るとき、整理し分類し秩序づけて排除する文字を告発している。このとき奇妙にも、声の共同体の文化には自らが文字の文明に先行するという自負があるようだ。(声の共同体の擁護者が前提するように)文字が歴史の観念(何が「先」で何が「後」かという観念)をつくったとみとめているのに、この歴史の観念に依拠する「声」が、「文字」のほかにどこから現れたと主張するつもりなのか。合理的に考えれば結局、書記行為の文明が存在するところに声の文化が生まれたのである。だから声の文化の言説が「この道しかない」('声しかなかった')と主張するとき、カオスがあらわれる。そこで文字は歪に代理性という(声の対抗物として)枠づけられるし、(他の道をさがす)テクストが外部と絶えず繋がるという思考の外部性が消されてしまう。これはハリウッド映画の目的論的に解釈されるシナリオのシステム、文化論的な同一反復に巻き込まれる言説のカオス、破壊的野蛮なのだ。文字を読む知識人はいかに、このカオスに陥らずに脱出していくか?文明の連続性を形成するか?文字が推進した問題を解決するためには、再び文字が定位するシナリオのシステムに依拠することができない。ゴダールが新しく言ったことは、これを倫理的な問題としてはじめて発見したことではなかっただろうか?「私が映画の世界のなかでひとりぼっちな感じがするのは、書くために、つまり鉛筆を手に取るために、写真を必要とするような人を一人も見つけることができなかったからです」。ゴダール以前には、書くために映像と音の力に依拠することを倫理的な問題としてとらえる言説は存在しなかったのである。ここでゴダールは映像と音の関係もかんがえた、それはいかにこちらとあちらを関係づけるかという問題意識にあらわれることになった。(北)アイルランドとイギリスだけではない。パレスチナイスラエルの和平のための映画をいかに書くかということである。あまりにも曖昧だとしてゴダールの捉え方には批判も多いのだけれど、パレスチナ問題をいうときあえてそれを映画の問題として構成してみようとするのである(ドキュメントとフィクションの問題)。なぜだろうか?恐らくは、映画から離れては、問題を開くことができない、(したがって政治家と専門家だけが語る問題のままである)と考えているからではないか。ゴダールは哲学者ではないけれど、日本の哲学者と比べたら遥かに哲学的な方法論的自覚をもっている知識人だとおもう。ゴダールは映画を依拠できる思考として措定してきたのだから映画から接近するのだ。もちろん限界にぶつかる。その限界から知識人の語りが始まることになる。問題解決のために文化多元主義にまだ可能性があるのか?理念としての政治多元主義としての可能性を書く必要が大きくなってきたのではないかなど。