サィード再考

「 われわれが話している言葉は僕のものである以前にあの男のものだ。家庭(ホーム)、キリスト(クライスト)、酒(エール)、主人(マスター)という言葉は、かれが口にするときと僕が口にするとき、僕はきまって不安を覚える。たいそう親しくしかも異質な彼の国語は、僕にとってはいつまでも習い覚えたてた言葉に終わるだろう。僕はその単語を作ったこともなければ、受け入れたこともない。僕の声はそれらの単語を追いつめる。僕の魂は彼の国語の陰で井ら立つ。」(Joyce, Portrait of the Artist as a Young Man) ▼1983年サイード ('The world, the Text and the Critic')はジョイス文学から引く。ひとつのアイデンティティーだけを選択すると他のアイデンティティの全部が踏みつけられる(one identity tramples all the other's )。排他的本質を構成するひとつのアイデンティティーに、文化多元主義が穴を開けれるか?▼文化多元主義の意義は自明だが、政治多元主義を伴った抵抗でなければならない。現在厄介なことに、権威体制が知識人を利用して文化多元主義を包摂してきた (例、日本知識人の帝国の言説)。政治多元主義の声 (東アジアの民主化運動・反グローバル資本主義)が抑圧される可能性も出てきたのだ。▼問題提起として、文化多元主義よりも政治多元主義から経験知を引き出すことが求められているのでは?先駆的に、帝国主義の歴史を抑圧されたマイノリティーが敢えて書いたジョイスはそこで市民的権利の理念性も書いたのだった▼最後に、ジジェクのOWS前の認識について。権威体制の側で文化多元主義の夢を発明できなければ政治多元主義を求める危機に陥るという見方ーカントとフロイトを折衷したーをもっていたように思われる。

 

The language in which we are speaking is his before it is mine. How different are words home,Christ,ale,master,, on his lips and on my mine! I cannot speak or w...rite these words without unrest of spirit.His language,so familiar and so foreign,will always be for me an acquired speech. I have not made or accepted its words.My voice holds them at bay. My soul frets the shadow of his language. (James Joyce, Portrait of the Artist as a Young Man)