柄谷行人「世界共和国へ」を読む

テートモダン常設展('詩的想像力')の最初の部屋にキリコGiorgio de Chiricoの作品が飾られています。なぜこの絵が?と最初思ったがここに通っているうちに段々とみえてきました。▼だがカントの本の表紙をキリコの絵が飾るという必然性が理解できたのは、カントの統整的理念の意味を読めたときでした。キリコの作品こそは統整的理念の意義について考えさせるものでした。▼さて柄谷行人はこの統整的理念を以てイデオロギーについて語ることになったのですが、しかし「天なる帝国よ、内なる固有信仰よ」なのかしら、柄谷さん?もし「世界共和国へ」は実は帝国の構造へという意味だとしたら、「共和国」の民主主義的理念はどこに消失してしまったのでしょうか?▼秩序オプチミズム、天なる帝国の構成的原理こそ、民主主義の声をあげる統整的理念を嘲笑うことになっていませんか?▼そして柳田論も相当にヤバイですね。複数の日本、複数の日本語のために努力してきた'穴あけ'の多様化の努力が有効でなくなったといきなり勝手にきめつけて、あなたが戦略的に?強調なさる「固有信仰」で意味されるのものが基底...的深層としての'一つの日本'だとしたら...。

「私が本書で考えたいのは、資本=ネーション=国家を超える道筋、いいかえれば「世界共和国」に至る道筋です。しかし、そのためには、資本、ネーション、国家がいかにして存在するのかを明らかにする必要があります。資本、ネーション、国家はそれぞれ、簡単に否定できないような根拠をもっているのです。それらを掲棄しようとするならば、まずそれらが何であるかを認識しなければならない。たんにそれらを否定するだけでは何にもなりません。結果的に、資本や国家の現実性を承認するほkさなくなり、そのあげくに「理念」を嘲笑するに至るだけです。」(柄谷行人「世界共和国へ ー資本=ネーション=国家を超えて」の序文より)

「そこで私はこう主張する、ー先験的理念は決して構成的には止揚されぬ、それだからこれによって大正の概念は与えられない、もし理念をこのように解するならば、理念はまったく詭弁的(弁証的)にすぎなくなる、と。ところが先験的理念は、統整的にも使用されるのである。この統整的使用は、悟性をある目標に向かわせるに必須の、かつすぐれた使用である。悟性の一切の規則はこの目標を望み見て、方向を指示する線に沿いつつ一点に合する、この点が即ち理念(focus imaginarius 虚焦点<即ち、光がそこから発出するかのように見える鏡面の想像的焦点>)にほかならない。かかる「点」は、まったく可能的経験の限界のそとにあり、従って悟性概念が実際にこの点から発出するのではないが、しかし悟性概念に最大の拡張と最大の統一とを同時に与えるのである。ところがここから錯覚が生じるのである。つまり方向を指示するこれらの線が、あたかも経験的に可能な対象そのものの領域外にある対象から発出したかのような錯覚である(これは対象が鏡像の背後に実在するかのように見えるのと同じ理屈である)。それにも拘わらずこの錯視は(もちろんこれによって生じる欺きを防ぐことはできる)、我々が自前の対象のほかに、それから遠く離れて我々の背後にある対象を同時に見ようとすると、ー換言すれば、この場合のように我々が悟性を、およそ与えられた経験を超えて、従ってまた可能な限り最大でかつ極度の拡張に適応させようとすると、どうしても生じざるを得ないものなのである。」(カント、先験的弁証論・付録、純粋理性の理念の統整的使用について)