宇野「経済学の方法」(1963)を読む

 

宇野「経済学の方法」(1963)を読む

‘読む'といっても、高名な経済学者の深遠な思想ー経済学研究の原理論・段階論・現状分析の分化についてーをコメントできる知識が私にはありません。ただ、思想史的に、宇野の文を眺めるだけです。そうすると、ヨーロッパ (イギリスですか、ずいぶんと端っこですね・笑)に、理念型を構成してしまう結果、どこにも存在しない純粋資本主義を真面目に物語る宇野に、日本知識人の繰り返されてきた思考パターンをみるおもいです。さらに宇野とかれを解説する柄谷の文を読むとき、高所から文明論的に言うことを許していただきたいのですが、ここに、翻訳文を通じて他人の言葉で考えなくてはならない日本知識人たちの宿命的鎖というか、ヨーロッパ語の受容からまだ百数十年しかたっていないという限界のことをどうしてもかんがえてしまうのですね。私にはその成熟度について判断できませんが、17世紀の儒者たちの成熟した文章が成り立つのに、いいかえれば、自分たちの言葉で考えるのに、1000年を要したと指摘されます。漢字受容の古代のときも、まだ他人の言葉を受容して百年ぐらいしかたっていない知識人た...ちは、中国に理念型を構成していったのは、現代の知識人とおなじだったでしょう。理念型に構成されたどこにも存在しない律令国家のことは考えられるが民衆のことは考えられないように、ー理念型に構成されたどこにも存在しない資本主義のことは考えられるが(国家と民族のカテゴリに属さない)市民のことは考えることができないようにー、他人の言葉の中から内部に即して考えていたのではないかと想像されます。

▼「経済学の対象をなす資本家的商品経済がまさに「資本論」の書かれた時代にイギリスで原理論を形成するのに最も適していたということに基づいている」(宇野「経済学の方法」1963)
▼「「資本論」に様々な意義をとなえる僕らは、なにか「資本論」を軽視しているように思い込んでいるかもしれないが、現代資本主義を問題とする場合に「資本論」がどういう役割を有しているかを明らかにしない点では、こういう人々こそ「資本論」を軽んじているとしか思えない。「資本論」は、原理論として純化されてこそ、その歴史的意義を完うすることになる」(宇野「経済学の方法」1963)
▼「このような「資本論」と現実の政治経済とのズレは、マルクス主義者を悩ませた。その結果、「資本論」を歴史的な仕事として'発展'させる者、つまり事実上それを放棄する者が出てきた。その中で、私が注目するのは、「資本論」をい保持しつつ、このズレを解決しようとした宇野弘蔵である。宇野は、マルクスが「資本論」で「純粋資本主義」を想定したのだと考えた。むろん純粋資本主義がイギリスに実在したわけではなく、また、将来において実現されるものでもない。ただ、マルクスがいた時代のイギリスの資本主義は、自由主義的であり、相対的に国家を捨象して、そのメカニズムを考えることができたという意味で、純粋資本主義に近いものであったといえる。とはいえ、宇野がいう「純粋資本主義」は理論的なものである。彼は「資本論」が、他の要素をすべてカッコに入れ、商品交換が貫徹された場合に資本制経済がどのように働くかを理論的に考察したものだと考えたのである。したがって、「資本論」は、資本制経済が存在するかぎり、特に変更する必要のない理論である」(柄谷行人「世界史の構造」2010)