政治が苦手な私の四つの疑問ー「柄谷行人 政治を語る」

 柄谷行人マルクスに接近するためにカントから語り始める。彼は倫理の問題に言及する。ここは素晴らしい問題意識なのだ。

▼「カントにとって、道徳性は善悪の問題ではない。自由の問題です。そして、自由というのは、自発性という意味です。たとえば、カントは道徳法則としてこういうことをいっている。「他人をたんに手段としてのみならず、同時に目的として扱え」と。目的として扱え、というのは、自由な(自発的な)存在として扱え、という意味です。われわれは互いに、他人を手段としている。それはやむをえない。しかし、他人を手段として'のみ'扱うことがあってはならない、というわけです。しかし、同時に、相手を目的(自由な存在)として扱うのでなけれならない。しかし資本主義経済ではそれができない。だから、カントは、商人資本を介在させない、生産者たちのアソシエーション(協同組合)を提唱しました。プルードンより50年前に。その意味で、プルードンマルクスも、カントの倫理学の延長としてある。そのような倫理学をもたないなら、社会主義社会主義ではなく...国家主義にすぎない。」

疑問1; オーソドックスなマルクス主義の考え方からすれば、経済の次元の闘いを乗り越えるところから、政治の次元の闘いがはじまる。しかし柄谷の考えでは、「労働者は、彼らが最も弱い立場である生産点で」闘ってきた結果、「国家とネーション」に躓いてきたと指摘する。このとき柄谷はカントとの連続性を絶って、いきなりマルクスの中心に接近するようにみえる。それは何故なのか?柄谷は自らの「交換様式」という観点について説明しだす。

▼「マルクス主義は、つねに、国家とネーションに躓いてきた。それは哲学や文学と同様に、イデオロギー的上部構造だとみなされた。それは経済的な構造によって規定される。ところが、国家とネーションに躓いた。つまり、スターリニズムファシズムに負けてしまった。この反省から、上部構造の相対的自律性をいいうようになり、それに固有の次元を考えるようになったわけです。フランクフルト学派精神分析を導入した。さまざまな神話学的・記号論的な視点も加わった。「共同幻想」(吉本隆明)とか「想像の共同体」(アンダーソン)なども、そういうものです。しかし、このような議論は、国家やネーションを表象や幻想として片づけることにしかなっていません。国家やネーションは文学と哲学とちがうと思う。文学芸術や哲学が経済的下部構造に規定されるとか、また、それが下部構造から相対的に独立した、独自の次元においてあるということは、別に間違いではない。しかし国家やネーションは確かにイデオロギー的構造をもつけれども、そんなことをいえば、資本主義的経済も宗教的な体系なのです。」
▼「そこで僕が思いついたのは、国家やネーションを、商品交換とは異なる交換様式から派生したものとみることです。・・・つまり、それらはたんなる表象ではなく、必然的な根拠をもっており、だからこそ、容易に解消できないものなのです。・・・マルクスは「生産様式」という観点から、社会構成体の歴史を考えた。・・・しかし僕はそれを「生産様式」ではなく、「交換様式」という観点から再考したのです。」

疑問2; ここで展開されているような、柄谷の交換様式の考え方が「資本主義的経済」だとおもうのは、彼の交換様式の考え方からなんでもかんでも全部を説明してしまうような「宗教的な体系」におもえるからである。ここでは、カールポッパーがいう、全部を説明する理論はなにも説明しないという批判が喚起される。(a theory which explains everything explains nothing)。だが、東アジアの知識人たちはマルクスはこう読めるのだとする柄谷からじわじわと影響を受けているともきく。納得いかぬが、柄谷の考えを理解するためにいちおうかれの説明のことばを素直に聞いていくしかない。彼は現在をこう分析している。「日本で中間勢力がほぼ消滅したのが2000年です。・・・モンテスキューが、中間勢力がない社会は専制国家になるといったことを述べましたが、その意味で、日本は専制社会になったと思います。いかなる意味でそうなのか。その一つの例が、日本にはデモがないということです。」という。ここから柄谷はアソシエーションという組織について具体的に語ることになる。デモなきアソシエーションが正当化されるのはただ、日本にデモがないという柄谷のリアリズムにもとづいている。柄谷の言葉によると、

▼「僕は八十年代に「単独者」というようなことをいっていました。それは、共同体に対して対抗できるような個人というイメージでした。単独者とは、一人でいる私人ではなく、原子的な状態の個人でもなくて、他人と連帯できる個人を指すのです。シュティルナーが「単独者」といったときも同じ意味です。単独者が創る共同体が、アソシエーションなのです。」
▼「労働者と消費者は別のものではない。労働者が消費という場に立つ時に、消費者となるだけだ。であれば、労働者は、彼らが最も弱い立場である生産点だけでなく、むしろ消費者としての立場で闘うべきだ。・・・それとつながることですが、消費者=労働者として国家や資本に対抗すると同時に、それらに依拠しないですむような経済的なアソシエーション(生産=消費協同組合や地域通貨・信用体系)を創り出すというものです。」

疑問3; ここで「経済的なアソシエーション」をいうことはなにを意味するだろうか?柄谷のあえて経済中心主義を斥けた、倫理性からはじまったせっかく問題意識が再び、経済の側に戻っていくようである。資本主義的経済がもたらした問題は、経済の次元によっては解決されないという問題意識はどこに行ったのか?そしてこの「経済的なアソシエーション」によって失われた政治は、柄谷の体系において、どこに回復することになるのか?この問題がある。柄谷はこう言っている。

▼「アナーキストマルクスも、国家をその内部だけで考えています。つまり、社会から国家が生まれてきたかのように。ネグリやハーバーマスもそうですね。だから、国家を、社会の公共的合意のもといおけばよいと考えているしかし、国家はそんなことで社会に従うことはないし、消滅することもない。というのは、国家が生まれたのは、社会の内部からではなく、他の社会あるいは国家に対してだからです。だから、社会の内部でかたづいても、外に対してはかたづかない。」

疑問4; 「経済的なアソシエーション」が一国資本主義では成功しないことも示唆していると読めなくもない。「経済的なアソシエーション」の決定的な多義性・曖昧性は、それが、六年後に堂々と展開されることになる、「帝国」の「アソシエーション」を帰結しうる可能性をもつことに存する。そのとき、柄谷が語っていた倫理性は結局は、帝国のもとでの同化主義に還元されることにはならないのだろうか?「柄谷行人は政治を語る」の本で驚くべきことに、柄谷は政治を一切語っていないーかれの帝国的同化主義の政治を語った予言のほかに。しかしこれはすでに、ヘーゲルマルクスが国家とネーションに託して破産した悪夢ではなかったか?