柄谷行人「世界史の構造」 (2010) を読む

 

柄谷行人「世界史の構造」(2010)を読む

 

▼The rhinon(サイ) のエピソード。リアリズムのラッセルは机の引き出しの中になんのものがあるかと見ようとするが、他方で脱リアリズムのウィットゲンシュタインは事実の総体がいかにあるのかとその意味をみることを問題にしたとおもわれる。

▼「本書は、交換様式から社会構成体の歴史を見直すことによって、現在の資本=ネーション=国家を超える展望を開こうとする企てである。」という序文からいきなりはじまる「世界史の構造」のどの頁にも、資本主義のことが書かれている。そのはずなのに、しかしわれわれがそこで生きている資本主義について一度も論じられることがないという奇妙な感想をもつ。それはなぜか?

柄谷行人ウィットゲンシュタインについて書いてきたにもかかわらず、資本主義という机の引き出しのなかに、資本=ネーション=国家という三位一体があるかだけが理念的に問題になるとき、かれは限りなくラッセルに近い。方法論的に純化された資本主義の理念型として構成されたものが日本においてきちんとあるのかどうかを見ようとする。なんのために?資本主義を語るとき、従来の理論のように生産様式からみるのではなく、交換様式からみたほうがよく分析できるはずだという自身の言説の正しさを確認するためである。

▼だが、ここから、いかに、ネーションと国家の外部から、資本主義にたいして民主的介入を行うのかという問題がでてくることはないし、またそこで市民の経験がいかなる意味をもつのかということが新しく語られることもないのである。このようにヘーゲルの再語りとしての世界史が反復することに当惑してしまうが...だが、「資本論」をいかに読む者が権力の指輪をもつことになる。噂では、東アジアの知識人たちの間に柄谷の本の影響力が浸透し始めているというが、二一世紀を読もうとして十九世紀を読んでいることの意味はなにか?