なぜ大江文学は読めないのか? ーいま「個人的体験」(1964)を読むことの意味は何か

 

 

なぜ大江文学は読めないのか?
ーいま「個人的体験」(1964)を読むことの意味は何か

 

大江健三郎の代表的仕事のひとつである「個人的体験」の<前>になにが語られていたのか、そして「個人的体験」の<後>になにが語られることのなったのかをみることによって、大江においてはじめて語られることになったことについてなんとか考えてみようと思います。▼大江は文学の方法論について意識的な作家であり、この態度は絶えず小説の構成の戦略と文体の選択に大きな影響をあたえてきました。死体処理のアルバイト医学生の奇妙な自意識を描いた「死者の奢り」や、村でのアフリカ系米兵の捕獲を描いた「飼育」といった初期の作品においては、現実逃避を試みる人間の自意識が、芥川龍之介の再来とも称えられた精緻な描写とアレゴリーによってとらえられたといわれました。▼一方、大正文学が得意とする人間心理の働きを表現技法の巧みさで描いた芥川文学の再来という評価を超えて、戦前の文学がとりこぼした思想性を追求し、世界文学の土俵に真っ向から挑もうとする旺盛な野心が、大江には溢れていたというのですが、かれが思想の方向を間違えると、だんだんとかれの文学を読めなくなってくるのかもしれません。▼「個人的体験」の<前>になにが語られていたのかというと、それは戦後文学が初めて表現することになった罪悪感といってよいとおもいます。たしかに、大正からの夏目漱石を読むと、貧富の格差の拡大とともに昭和の戦争体制へと深まっていく帝国日本に先行して、明治中期あたりのプチブルの小市民的な罪悪感がすでに描かれていたことがわかりますが、「野火」のように人間存在の根源にある罪悪感というものについてかたる言説はやはり戦後文学からです。そこから大江は肉体が消滅したあとに残った魂がなにを語るのかを積極的に書いたようにみえます。▼「「僕は希望を持っていない」と僕は低く言った。」(「死者の奢り」(1958))といわれているのは、大江においてはじめて語られることになった言説ではないでしょうか。これは、国家神道が復活するかもしれない平成ファシズム前夜、<語る>民主主義とは正反対の、もはや<選ぶ>国民ですらない、<戦う>国家に定位する<祀る>国民の誕生に直面する現在の私の関心から読むとき、大きな意味をもちます。否、もっていなければならないとわたしはおもうのです。▼「宗教に救いがなければ意味が無いのにどう思うか」ときかれたとき、信は救済の約束とは無関係だよと答えるのは、お国のために戦死したら英霊として靖国に行けるから安心せよの「安心」が救済とされた歴史があったからです。もし別の歴史ならば別の考え方をしたかもしれないけれど、しかし私の生きる歴史からやはりこう答えるほかにないのです。思想問題としては、魂に希望がないことが大きな意味をもつのです。そうして私は次の文を読むとき、ほかならない、この体験に、ある意味で、「美しい日本の私」といわれる教説に背を向けてきたと語ることになるであろう大江文学の中心的意味があったのだとかんがえるのです。

▼「ねえ、鳥(バード)。こんどのことが、こんな風にあなた個人に限る問題じゃなくて、、わたしにも共通に関わる問題だったとしたら、わたしはもっとうまくあなたを力づけられてあげれたのに」とやがて火見子が鳥(バード)にかれのうなされかたについて話したことを悔んでいる沈んだ調子でいった。
「確かにこれはぼく個人に限った、まったく個人的な体験だ」と鳥は言った。「個人的な体験のうちにも、ひとりでその体験の洞穴をどんどん進んでゆくと、やがては、人間一般にかかわる真実の展望のひらける抜け道に出ることのできる、そういう体験はある筈だろう?その場合、とにかく苦しむ個人には苦しみのあとの果実が与えられるわけだ。暗闇の洞穴で辛い思いはしたが地表に出ることができると同時に金貨の袋もあたえられるわけだ。暗闇の洞穴で辛い思いはしたが地表に出ることができると同時に金貨の袋も手に入れていたトム・ソウヤーみたいに!ところがいまぼくの個人的に体験している苦役ときたら、他のあらゆる人間の世界から孤立している自分ひとりの竪穴を、絶望的に深く掘り進んでいることにすぎない。おなじ暗闇の穴ぼこで苦しい汗を流しても、ぼくの体験からは、人間的な意味のひとかけらも生まれない。不毛で恥ずかしいだけの厭らしい穴掘りだ、ぼくのトム・ソウヤーはやたらに深い竪穴の底で気が狂ってしまうのかもしれないや」
▼「- Bird, si tu ne gardais pas tout cela pour toi, si j'étais advantage mêlée à cette histoir, il me semble que je pourrais mieux t'aider.
- C'est une affaire strictement personnelle, en effet, dit Bird. Mais il est possible qu'en pareil cas quelqu'un d'autre puisse vous aider à trouver la verité... Ce qui m'arrive me donne l'impression que je m'enfonce, seul, dans un tunnel sans fond, en m'éloigant de plus en plus du monde des autres. Comment faire partager à qui que ce soit ce que j'éprouve ?(仏訳より)

▼「個人的体験」の<後>になにが語られることのなるのかという問を「読む人間」(2007年)でいわれていることに即して考えてみます。結論でいわれていることは、希望なき魂のあり方にたいする考え方変更することです。かれこういいます。「だからといって私が苦しい老年から若々しい人生の盛りに立ち戻れるのではないし、死について考えることは、さらにリアルな日々の習慣になっています。しかし私は「後期のスタイル」によって仕事をすることが、希望を失わずにいること、不確かな足場に立ちながら、困難を克服するためにもう一度試みることだ、というサイードのアイデアを、深く強く納得しているように思います。長い目で見れば希望はある、ということに私は賛成です。しかもいいま私は、その長い時はいつまでも続く、その前に自分らは死んでしまう、というように考えることはやめました。自分の死は確かだが、しかも相対的だ。その向こうにむけて「後期のスタイル」によって成し遂げうるものを、できるだけ遠く投げておくことはできる。それをカタストロフィーとも見まがう緊迫したやり方でなしとげた芸術家たちの仕事が、現にいま私らの歴史の最良の部分を支えているではないか?」
▼それなりに思想的な理念として文学的に成り立っていたはずの希望なき魂をこのように捨て去ることの代償とはなにだろうか?彷徨える魂は消滅するが言葉に定位することによって永遠だという。すなわち、読む人間が永遠に生きることの可能性と希望のことを大江は言うのです。だがここから大江は読めなくなるのです。芸術家のことが言及されているところで語られているのは、読む人間の問いつづける問いかけではなく、教える人間の死後どこへいくのかという教説あります。またどこから来たのかという教説。だがこのような教える人間の側で、魂の語りえない悍ましい他者性が消去される危険性はないのでしょうか?「個人的体験」(1964)を読むことの意味は何だったのかをわたしはここでふたたび問うのです。精神の平等を問うた「火見子」と「鳥(バード)」に向かって私はこの問題を問うてみたい。文学者が決して現さないが、だがただ現実に生きるというだけで称えられるような人間の生きる権力に魂が従属するというというのは、それはシニカルな反知性主義というものではないだろうかとかんがえます。

 

本多 敬さんの写真