ジョイス

‪ジョイスの「自分で決めた亡命」によってアイルランドの外部で書いた、1916年の英国植民都市ダブリンを舞台にした『ユリシーズ』に登場するダブリンの人々は、古代イスラエルを住処としている。語りかたは、よく知られているように、まるでカメレオンみたいに自由自在に変身するのだが、語り手はストーリーテラーのジョイスである。和辻哲郎も、ホメロスを文献学的に読み、また古代イスラエルのことを解釈学的に語っている。『ユリシーズ』は昼の本だとすれば、『フィネガンズウェイク』は夜の本であるという。その語り手はジョイスだけれど、作品中の彼の告白によると、言葉どおりの確信がないのだけれど(どうなるのかわからない)、二人共同体が書いていることがどうも新しいらしい。語り手は、「公」の三者が介入しない関係として、宇宙の中心を住処とするジョイス自身と神話の想像力豊かな匿名的多数主体でなければならなかった。(わたしは二人共同体をアカデミックに厳密に理解しているわけではない)。ここで重要なのは、古事記』という偶像の再興者・和辻哲郎が考えたように、「民族の国家的な統一を作り出す政治的制作力と同等ば文化的な統一を作り出すような文学的創作力」(子安氏)について考えてみることであろう。問題となってくるのは、芸術作品としての「古代」の文学の言語は、和辻が考えたように「ひとつ」でなければならないのかという点である。和辻が解釈した芸術作品の言語から、いろいろな異日本語が排除されているというその理由がわからない。ユートピア的に、「固有なもの」を生み出す一国知の<特殊を通じて普遍へ>と同様な、一国知の「文学の解釈」だからなのか?『フィネガンズウェイク』は読むことができないのは、五十カ国以上の言語で文を書いたからなのだけれど、混在なもの(エテロクリット)、そこにおいてしか、不可避の他者との関係によって自己との関係を構成できないとジョイスは考えて、時間の深い流れの散逸を書いた。同一性が語られるとしても、ニーチェの文学とおなじように、それは、<同一者〉の〈回帰〉と人間の絶対的散逸との同一性である。


(参考)

‪「かくて言語の共同は一定の人間共同体の範囲を示すことになる...では言語の共同の範囲は何であるか。我々はそれを「民族」と名づけてよいであらう。古来史上に現はれた民族にして言語の共同を第一の特徴としないものは、ただ一つユダヤ民族のみであらう。がこのユダヤ民族に於いてさへも、その民族的統一を表現するものは、まさしくヘブライ語聖典である。即ち本質的に言語の共同の上に立っているのである。」(和辻哲郎)‬


フィネガンズ・ウェイク、二人共同体から始まる !?‬

「あいつは、哀流濫士のけちな割れ豆を我慢するより熱いレンズ豆のポタージュでやけどをする方がましだと言い、一人で(女)と逃げ出して、ヨーロッパの異邦人になりやがった」(宮田恭子先生訳)‬

He even ran away with hunself and became a farsoonerite, saying he would far sooner muddle through the hash of lentils in Europe than meddle with Ireland's split little pea. 

(Joyce, 'Finnegans Wake')‬