柄谷行人『マルクスその可能性の中心』(1978年)を読む

柄谷行人マルクスその可能性の中心』(1978年)を読む

 

「われわれには、反復は代理されえない(かけがえのない)ものに対してのみ必然的で根拠のある行動になるということがよくわかる。行動としての、かつ視点としての反復は、交換不可能な、置換不可能なある特異点に関わる。Nous voyons bien que la répétition n'est une conduite nécessaire et fondée que par rapport à ce qu ne peut etre remplacé. La répétition comme conduite et comme point de vue concerne une singularité inéchanfeable, insubstituable」▼ここでドウルーズは単独性について語ろうとしています。この点についてスピヴァクが明快に説いています。つまり、単独性は倫理が問われるときに起きるもので、知るという企てを延期します。ポスト・スピノザ派のドゥルーズが定義するように、反復されるのは...差異なのです。われわれが理論的であろうとするとき、単独性は助けにはなりません。理論は一般化を目に見えるようにします。単独性は理論的なものをさえぎり、前衛主義を妨げます。単独性と理論的なるものの関係は、いわば実践理性と純粋理性の関係のようなものです。単独性が稼働し始めると、単独性は概念が現れるのに厳然と抵抗する、といいます。▼このことを念頭におくと、たとえば、『マルクスその可能性の中心』の柄谷行人の場合、「資本論」を構成する価値の理論を中心として存在することを見出したことが理解されます。単独性と柄谷がいうものもやはり、実践的に働きはじめることが期待されているのです。単独性は理性概念が現れることに抵抗することになるから。日本知識人の「資本論」とのファシズムともいうべき不可避な関係を理解する必要があるのですが、この柄谷の日本ポストモダン脱構築は、知識人たちに<だれが「資本論」を読むことができるのか>を決定的に教えることになりました。▼だけれど、柄谷は90年代において、ポストモダン言説のネオリベ的言説への転位に失望した結果、「資本論」の読み方を新たに構築していく、'命がけの飛躍'の必要性を感じたようです。ただし「新たに」といっても、それは、柄谷による、宇野の「経済学の方法」の方法論的こだわりと、河上肇「貧乏物語」の物語とを足し合わせたのではないかとおもわれるような方法論的物語を題目にした、再びヘーゲルの側に回帰した帝国論、ポスト社会主義論の理論的構築でした。東アジア知識人にたいして、<だれが「資本論」を読むことができるのか>ということを教えることになりました。▼それにしても、柄谷は、「世界史」的展望から「120年周期」の予言を繰り返しているだけです。世界史の構造から帝国の構造へと進めていくなかで、帝国間の平和を予言します。ここからわれわれは柄谷がわからなくなっているのです。彼の予言に従うと、未来は帝国形成に至るヘゲモニー国家の争いだけなのか?柄谷が語らぬフランス革命が齎したもう一つの側面、市民の政治化が再び起きる可能性はないのですか?20世紀に植民地主義と二つの世界戦争に帰結した、19世紀的国家主義民族主義の悪夢を乗り越えようとする、21世紀グローバルデモクラシーの時代に、破綻した過去を一生懸命再建しようとしているにしかみえない、柄谷をよいしょする日本マスコミも、3・11以降目覚めた市民の蜂起を恐れているから「帝国」の教説を見抜けません。

西欧の他者によって語られてきたが、自ら語ることがなかったアジアの歴史を語りはじめたことの意義はありますが、そうだからこそ、それは日本精神の亡霊みたいな「世界史」が成し得ることではありません。ヘーゲルは言いました。歴史は繰り返されるー一度目は悲劇で、二度目は茶番で。たしかに、二度目の'命がけの飛躍'は、『マルクスその可能性の中心』のまえー帝国という名で国家と民族を物語るヘーゲル的前衛主義ーに戻ってしまいました。