時枝誠記「国語学原論」(1941年)を読む

時枝誠記国語学原論」(1941年)を読む

時枝誠記は、ソシュールの言語理論を批判し、独自の言語観に基づき、言語過程説を唱えました。言語過程説は、言語を「もの」ではなく、人間の表現活動であるとみる言語理論です。ここでは、非専門家の私の関心ですから、「国語学原論」(1941年)が切り開いた言語学的成果を問うことよりも、彼において何が言われたのかという思想的なものに関係したことがらを問うことにあります。▼時枝は、言語の存在条件として、主体(話手) と場面(聴手そのほか)と3素材の三角形を提示します。「この三者が存在条件であるということは、言語は、誰(主体)かが、誰(場面)かに、何物(素材)について語ることによって成立するものであることを意味する」といいます。

「画家が自画像を描く場合、描かれた自己の像は、描くところの主体そのものではなくして、主体の客体化され、素材化されたもので、その時の主体は、自画像を描く画家彼自身であるということになるのである。言語の場合においても同様で、「私が読んだ」といった時の「私」は、主体そのものではなく、主体の客体化され...たものであり、「私が読んだ」という表現をなすものが主体となるのである。主体は「私」という語によって自己を表現しているのでなく、若し主体の表現それ自体を知ろうとするならば、「私が読んだ」全体を主体的表現と考えなくてはならないのである。主体の本質は以上のようなものであって、言語の存在条件として主体の概念を導入することは、本論の展開の重要な基礎となるものである。」

「CDは事物風景であって、主体Aに対しては、まったく客体的世界に属する。Bは主体Aがこの客体的世界に対する志向作用を表し、B及びCDの融合したものがすなわち主体Aの場面である。ゆえに場面は純客体的世界でもなく、また純主体的な志向作用でもなく、いわば主客の融合した世界である。かくして我々は、常に何らかの場面において生きているということができるのである」

▼ここで明らかにされているように、時枝の場合は、主体が言語学の客体の側に置かれて固定されているのではありません。時枝は主体を思考主体としてとらえるています。ここで私がここで読んだことといえば、その思考主体に時枝自身も属しているということが彼に自覚されていたという可能性です。そういう言語は「言説」といわれているものと無関係ではないだろうとおもいます。▼ここからみると、間違えを恐れずに言うと、言語を思想の歴史から考えていく方法をもった思想家ではなかったかとおもうのですね。かれはこう言います。▼たとえば、言語を年代順に実証的に調べていくというやり方で、ヨーロッパの理念的に構成された音声中心主義の言語学をそのまま日本語に適用してしまうと、やはりヨーロッパの解釈学を介して構成される「大和日本」の語る言葉(声)をとらえるということになりますが、時枝はこの内部化を拒んだのです。この拒否は、昭和ファシズムにもった意味は大きいと言わざるをえません。▼そもそも、文字を読む人間が文字なき言葉の世界を考えることの無理というか・・・文字が歴史意識を作り出したのだとしたら、その歴史意識にしたがって文字に先行するという時代の言葉を考えることは無理なのではないか?と、私などは思ってしまうのですが、時枝の場合は、かれは文字(漢字)の介入について考えることによってかれの思考を外部に置くことを試みた、あるいは、国語という単一のシステム(「場面」)にたくさんの穴を開けようとしたということではなかったでしょうか。

 
本多 敬さんの写真