水村美苗「日本語が滅びるとき」(2008)は、なぜ気持ちわるいのか?

 

日本近現代の思想史は大変面白いのです。だけれど、個別的に、近現代の思想を読むとき、それは、日本近世の思想と比べて、非常に貧しいという印象をどうしても持ってしまうのですね。この印象はなぜ起きるのか?▼はっきりとわかりませんが、200年ぐらいの歴史の中でヨーロッパ語というまだ他人の言葉で書いた近現代の思想は、ピカソより後の形式の思考を強いてくる現代絵画のように切り刻んだ断片的な現在進行形で進みます。そこでは反復があまりに多く表象があまりに少ない。▼他方で、漢字の受容から少なくとも1000年の時を経たという、自分の言葉で書くことができた近世の思想の場合は、反復が非常に稀にしか起きずそこでの表象が豊饒だということにだんだんと気がつくことになります、ピカソより前の古典絵画に通じる自立的な想像的多様性、読む人間の尊厳が保たれるというか、そこで未来を思い出すというか...▼たしかに、われわれの漢語が、「英語の世紀の中で」と水村美苗がよぶものにおいて、「滅びる」可能性があります。そういう意味で夏目漱石の文学は意義深いことに異論はないけれど、だからといって、アメリカからしか成り立たないような、純粋に理念的に構成した日本語の危機を訴えてもね、そんなきもちわるい純粋日本語は最初から成り立っていないかもよ。この「日本語が滅びるとき」は、いわゆる美しい日本語をいうナショナリズムにしては個人主義的ですね。寧ろこれは新しい帝国アメリカのアイデンティティではないでしょうか。アメリカのどこの国家にも包摂されない帝国としてのアイデンティティに対抗した主張の類なんでしょうけれど、対抗することによってこのアイデンティティに根付いていくという気持ち悪いきもちわるさ・・・

 

 

 
本多 敬さんの写真