本居宣長「排蘆小舟」「石上私淑言」を読む — 顕然たる起源とはいえない、隠された出発点、何かがそこに始まりながら、しかし同時にそこにあるものを置き忘れもした起点

宣長における宝暦十三年という年が象徴している事態は、研究者にほんとうの宣長とは誰かを問うものとしてあるわけではないし、また宣長とい統一的思想像をいかに構成するかを問うものとしてあるのではない。あの事態は、宣長における「物のあはれ」的歌学世界の形成が、直ちに「古事記」による古学的世界の形成への出発を促すものとしてあったことをものがたっている。たしかに「石上私淑言」と「紫文要領」とが共有した「物のあはれ」概念による文学理解は、「源氏物語玉の小櫛」(寛政八年成立、同十一年刊)として完成された姿をとっていく。だが「石上私淑言」そのものは未定稿として篚底に置かれることの上に、「古事記伝」の執筆が宣長の生の正面に位置する形で進められていった。そしてその生のいわば豊かな背後を形成するように歌物語世界は置かれ、そこから「源氏物語」論の完結も見ていくのである。私たちがいま問う必要があるのは、そのような「石上私淑言」である。未定稿「石上私淑言」とは、「古事記伝」を軸にその上で顕然と形成されていった宣長後半生の古学的・古道論的世界の意味と性格とを、私たちにあらためて問い直させる隠された前提的作業としてある。さらに「石上私淑言」における「物のあはれ」的歌学的世界が最初期歌論「排蘆小舟」は宣長における国学的世界の成立にとって、顕然たる起源とはいえない、隠された出発点、何かがそこに始まりながら、しかし同時にそこにあるものを置き忘れもした起点であることになる。いま「排蘆小舟」を見るには、純粋な起源を遡及するのではないフーコ的系譜学の視点が必要である。」(子安宣邦

 お互いに自立し合った関係を保ちながら、感覚の領域とイデオロギーの領域は同時に成り立ってもいいんじゃないの?だが近代の知というのはそれを許さない。統一像の共通を常にもとめるんだね。そうでないものはそもそも知ではないのだというふうに。または最初から、(独立的な) 統一像をもとめる過ぎるから、無理が起きてくるんじゃない?と、この問題は、宣長に即していえば、歌の学びと道の学びとを宣長という一筋の思想的な生涯においてどう理解するかという知の捉え方に関係している。でもね、なぜ、せっかく複雑なものを単純化しようとするのか?単純化して二つの領域を単一の領域に還元しようとするのか?最初にもどると、感覚の領域とイデオロギーの領域とが互いに干渉しあうとき、感覚の領域ともいえないしイデオロギーの領域ともいえない何か、両者を足しあわせたものとはいえない何か未知なものがはじめて誕生するかもしれないというのにさ。そういう意味で、歌の学びと道の学びと、この両者は宣長において、同時に働いていた、と、考えたほうが面白いよ。子安先生はフーコを引いている。「「石上私淑言」における「物のあはれ」的歌学的世界が最初期歌論「排蘆小舟」は宣長における国学的世界の成立にとって、顕然たる起源とはいえない、隠された出発点、何かがそこに始まりながら、しかし同時にそこにあるものを置き忘れもした起点であることになる。いま「排蘆小舟」を見るには、純粋な起源を遡及するのではないフーコ的系譜学の視点が必要である。」と。同じ意味で、ドゥルーズは「生成変化の序列は<同盟>なのである」といっていることを理解できた。

 
本多 敬さんの写真

 

 

参考

Le devenir est toujours d'un autre ordre que celui de la filiation. Il est de l'alliance. Si évolution comporte de véritables devenirs, c'est dans le vaste domaine dese symbioses qui met en jeu des êtres d'échelles et règnes tout à fait différents, sans aucun filiation possible.

▼Becoming is always of different order than filiation. It concerns alliance.If evolution includes any veritable becoming, it is in the domain of symbioses that bring into play being of totally different scales and kingdoms, with no possible filiation.
▼生成変化は常に系統とは別の序列に属している。生成変化の序列は<同盟>なのである。進化にも真の生成変化が含まれるとしたら、それは等級と界を異にし、いかなる系統的つながりをもたないさまざまな存在を巻き込む広大な共生の領域である ードゥルーズガタリ「ミルプラトー」より