柄谷行人

柄谷行人

多様性へ行く1960年代は、普遍主義批判の時代でした。たとえばフッサールの読み直しが行われたとき、意識はこの普遍主義イコール一つの構造に属すことができないと。普遍主義批判は単一の構造に対する批判を意味していたのです。さて、ギリシャ哲学の言葉にあるように、「すべては流れる」(panta rhei)、同じことは起きません。時代の変化とともに、時代に対して異なる読み方で読み、その批判を異なる書き方で書くことが要請されるからです。柄谷行人氏は、グローバル資本主義が露骨に顕在化する時代に、世界資本主義の分割である帝国の時代の到来を見抜きました。素直に、それは凄いことです。しかし、「私は変わった」と言いながら、問題解決を分析するときにかつての立場にこだわるから時代遅れにみえます。つまり一つのシナリオ(世界史の構造)において複数の構造を書くことをアナクロニズム的に行っていますが、しかし現在は、歴史修正主義に煽られる、民族主義と<対抗>民族主義特異点を避けるように、ここから自立した市民が介入していくことができるような、二つのシナリオ(多としての普遍主義)を書くことが必要だとおもわれるのですー現実的には絶望的に困難でも、だからといってしかし柄谷氏のようにシニカルに帝国とその党官僚の側に追従するかたちで市民の声と理念を棄ててしまったら彼がこだわる思想を含めて何もかもゼロになることをわたしはおそれます。