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「アンチ・セミティズム」

‪なんとトランプのアメリカで、アンチ・セミティズムの動きが起きているという大変憂慮すべき事態が報じられる。ところでこのアンチ・セミティズムの語について、アインシュタイン、彼が時々言及していたスピノザ、またマルクスフロイトなどコスモポリタンの代表選手のような彼らは、ヘブライ語はもちろん、ユダヤ教とか固有ユダヤ人とは無関係な彼らの考え方は、アンチ・セミティズムといわれることをロンドンにいるときに知って驚いた。そうなの?彼らはアンチ・セミティズムと名指されるのかと。アインシュタインEinsteinはかつて言った。 Wissenschaft ohne Religion ist lahm, Religion ohne Wissenschaft ist blind. (宗教なき科学は欠陥であり、科学なき宗教は盲目である。) ここでいわれる宗教は、何か普遍宗教(世界宗教)ということで、そうであればユダヤ教でなくとも構わないのである。と、これが所謂アンチ・セミティズムとみなされる言説の性格を形作っているのだろう。詳しくわからないが、"未完のナショナリズム"の場合と同様に"未完の民族宗教"というか、民族宗教が普遍化していく果てに普遍宗教(世界宗教)となって、その結果元々起原としてあった民族宗教が消滅してしまう歴史のことを考えさせる。それにしても、アンチ・セミティズムというこの名指しはそれほど正当化されるのか?これについて考えるために、サイードが行なった講演をベースにしたフロイト論を読んだ。詳しいことは覚えていないが、「アラブ人」に属する自分がフロイトについて語るのはある不快感をともなうと言わざるを得ないなどと前置きしていたのが印象に残っている。結論を言うと、フロイトにとって、ドイツ人であること、ユダヤ人であること、これは政治との関数によることであったという。最終的にロンドンに亡命することになったフロイトにおいては、起原を指定できるような同一性はない、あるようにみえても、曖昧な同一性しかなかったというのだ。この点については、ポスト構造主義のようにあたかも自然生成的に差異化したということは起きず、ただ、抵抗するためにドイツ人のアイデンティティに向かったり、ユダヤ人のアイデンティティに向かったりしたということがサイードがどうしても言わなければならなかったポイントである。 (そもそもユダヤ人の歴史というのは、アイルランド人の歴史と比べられるのだけれど、「アウシュビッツ」の後にはじめて意識されてくるものだったとイスラエル人たちは教えられるようだ。マルクスが指摘するところでは、19世紀に近代国家が成立してくるときに国家に属さない他者たちがあられることになった、それがユダヤ人と名づけられていくという。再びトランプのアメリカについていうと、「再びアメリカを偉大に」という同一性の言説をもって無理に統合していくときにそこから排除されてくる他者たちがあられてくるということ‬)