「書く」と「信じる」は外部に存在する

信というのはこれを理性の内部に位置づけられない。カントと仁斎はこの点で非常に似ている。信を理の中に位置づけることもできよう。ただそのときは、強力な同一化が働いていることも見逃せない。同一化の近代から、イコール声も、イコール壊れない起源、などが語られるようになった。そして現在の問題だけれど、宗教イコール民主主義も。そういう場合は宗教は歴史修正主義者の口を借りて自らを文化として偽装している。書記言語というのは声を読むことができないのはなぜか?逆に声は文字をきくことができない。書記言語は自らが起源の部分として構成されてしまう包摂を拒むからか?書記言語性はすなわち起源をもたない孤児性としてたとえられようか。「書く」と「信じる」は外部に存在するのだ。そういうことではないかとやっと考えるようになった、それだけのことなのだけれど、50年とかの歳月を要することなのか、だけれどそれほど惨めにならずにこのことを書いている...