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「弁名」ノート‬ No. 29 ( 私の文学的フットノート)

聖人の叡智と人の知について、『弁名』の徂徠は非連続性を導入した。徂徠は道『論語徴』などで子安氏の評釈によると、「聖とは作者の称」という定義にあるように、聖人とは「礼楽刑政」の道の制作者である。子安氏の評釈を読むと、「では何をもって聖人は道を制作したのか。徂徠は聖人の聡明叡智の徳にしてはじめて道の制作は可能であるというのである。その聖人の功は神明に等しいと徂徠はいう。」。その功と等しいとされる「神明」というのは聖人の「大きさ」をあらわすのであろう。思考不可能な「大きさ」から考えていくこの考え方の道筋が大変重要なのであろう。そうしてつぎのように展開する。「この神明に等しいと聖人の叡智は学ぶことのできるものではない。それは制作者聖人とともに超越性をもった叡智である」。ここで「とともに」という言葉で徂徠の議論が説明される。聖人と叡智は切り離してはいけない。われわれはそれを「叡智」と名付けるというのである。「それゆえこの叡智は「知」とは何かというわれわれの批判的解明の対象としてあるのではない。われわれの知とは、学ぶ‬ものの知である。君子とは聖人の道を学ぶものであり、また先王の礼楽を学ぶものである。したがって君子の知とは、その先王の道を知り、先王の礼を知るところの知である」。社会全体を見渡す知によって、自身を代表したいとする、支配層の武士が武士であるために要請される学問をもつこと、制作された世界における君子の知を我がものにすること。評釈の結論はこうである。「徂徠において聖人の叡智と一般的人士の知との間にはまったく連続性はない。制作者聖人の智とその制作された世界の中にいる人々の知との間は断然される。ここで解明されるのは聖人の智ではない。制作された世界における君子(在位の人)の知であり、世俗の知である。」(子安) ‪‪「弁名」ノート‬ No. 29 (続き) ‪ •制作者聖人の叡智が言及される。‬ ‪「道を知る」とは、先王の道を知るなり。これその全(すべて)を統べてこれを言い、包まざる所なし。故にその人難し(かた)んず。孔子曰く、「この詩を為(つく)れる者(ひと)は、それ道を知るか」とは、難ずるの辞なり。「礼を知る」とは、先王の礼を知るなり。「言知る」とは、先王の法言を知るなり。‬ ‪ ‬ ‪(子安訳) 「道を知る」というのは、先王のみたいを知ることである。「道」ということで、先王の制作になるすべてを包括していっているのである。それゆえ道を知ることを難しとし、知る人を見いだし難いとするのである。孔子が、「この詩を為れるひとは、それ道を知れるか」(『孟子』)というのも、道を知ることの難きうぃいうのである。「礼を知る」とは、先王の礼を知ることである。また「言を知る」とは、先王の法言、すなわち先王の法(のり)とし教えとすべき言葉を知ることである。‬ ‬