なぜ、鬼神の言説を学ぶのか?

大日本帝国憲法のもとで起きたことについて「これだけはやめてくれ」と抗議するのは憲法である。では戦前に存在した国家祭祀の超憲法的なものをやめようというのはだれか?これについて考えるためには、天皇制国家の理念的青写真をつくった荻生徂徠から考えてみる必要がある。徂徠は聖人による鬼神の命名とは何かを社会哲学的に明らかにした。民はそれによって祭祀を通じて鬼神に出会うのである。‪信の構造における人と人との関係がものから自立してくるそれは、‬知識人が尊重しなければならない精神客観に関係するものだろう。問題は「私」の救済願望についてである。「私」の救済願望は、天下の「公」を志向する儒教においては否定されるべき利己的希求である。この問題意識を近代は実現できていない。小泉元首相は「私」の信教の自由を主張して靖国「公式」参拝を行なった。サミットの安倍首相は伊勢神社を文化施設であると主張して、小泉元首相とおなじことを実現している。そもそも中曽根元首相の靖国参拝に対して抗議することがなかった当時学生であった異常な世代が社会の中心にいる。このときは恥ずべきことにこの私自身も何を考えていなければならないのか理解していないために何を為すべきかよく理解していたとはいえなかった。だから戦前における国家祭祀の問題を考えるために、今日、「鬼神」の言説(朱子うぃ中心に、仁斎、徂徠、平田等々)を「論語塾」の場で学ぶのである。日本会議歴史修正主義者は超憲法的なものを日本の住処にしようとしている。生活の隅々まで区別してこない全体国家という形で戦前と同じことは起きないだろう。しかし彼らの他者否定の言説の上に新しい自己との関係を再構築することはできないだろう。われわれは自らのあるべき依り所を反<国家祭祀>に打ち立ていくしかもうやっていけなくなったとおもう。‬