先ずグローバル資本主義の問題がある

先ずグローバル資本主義の問題がある


先ずグローバル資本主義の問題がある。これこそが思考を可能にする優先順位であるとおもう。ここから格差の問題や自由に喋ることができなくなってきた問題をよく考えることができる。この優先順位を保つことによって、思考ははじめて、他者という不透明な厚さと出会う。思考順位は原初性をもっている。たとえば、地域紛争の問題はいきなり宗教から問いはじめることはできない。先ずグローバル資本主義の問題があるとして考えるのである。同様に、政治的多元主義の危機の問題は、先ずグローバル資本主義の問題がある。だがグローバル帝国論はこの思考を成り立たせる優先順位を消してしまう。その代わりに、始原としての出発をさがしだす。例えば、グローバル帝国論はカントから問いはじめた。カントから問うことは、先ずグローバル資本主義の問題があるとする構成なのである。しかしこの後でそれを切り離すように新しく線を引いて事実上、いかに『資本論』を読むのか、その純粋で正しい読みに向かって語り出すのである。グローバル帝国論はそこで、世界史の哲学と同様に、グローバル資本主義の分割でしかないような多元世界を呈示しているだけなのだ。それだけではない。原初としての思考の優先順位を壊すことによって、グローバル帝国論は、それを誰が語るのかという問いも隠蔽してしまう。そうして、語るものは、思考を透明な深さのうちに包摂していくことによって、語り出す自らの権威を自らのうちにおこうとする。これは不透明な厚さと出会うことがない読みと同じような自己同一性の言説ではないか。この種の自己同一性の語りは、明治維新の真実を発見するとしてこれを語り出すものが明治維新という始原に依存するしかないような語りに反覆されている