‪「天地公共の道理」(横井小楠)

‪「天地公共の道理」


大学時代にやった「法は科学として成り立つか」という議論は、常のこととして初めからもう結論がわかってしまっているような透明な中立性というか、目的合理性に枠づけるゴールをもっていた。しかし問題は、ここからであった。問題は、1968年はなぜ、このゴールを批判しなければならなかったのかを考えることにあった。そこで、政治と道徳の連続性を前近代的なものとしかみなさい近代という物の見方をいかに批判していくかが問われることになった。確かにわたしのような学生でも、マックス・ウエーバを読むと、今日の思想史講義(子安氏)のなかで指摘されていたように、ウエーバが目的合理性を論じるとき価値合理性(神の意にかなう行い)を前提にしていたことは明らかだった。だけれど、当時は、中曽根首相の靖国公式参拝に対して、前近代のカオスを回避する抽象の方程式ー憲法憲法を構築する近代ーをただ眺めていただけで、ほんとうならば、怒りをぶつける「天地公共の道理」がわたしに必要だった。結局、朱子学の前近代を忘れてしまったために、言いかえれば、恥ずべきことに、人間としての良心に反している行いに抗議しようとしない異常な世代の一人となっていたのだ。この問題は現在に反復していると言わざるを得ない。誰が為政者に対して人間としての良心を問うのか?明治維新の近代は横井小楠をもたなかったために、今日好き勝手に喋っている安倍政権に対する抵抗が成り立たなくなっているのではあるまいか。明治維新の近代はもう答えがはっきりしている