アジア

安倍政権はアジアにおける近所どうしの話し合いの重要な意義の認識を十分にもたないから、アメリカと中国を利用しながら二つの極から自立していく交渉とアメリカの属国または中国の属国になる孤立との区別が成り立たない。まだアメリカに何がなんでもくっついていかなければ死であるという同一性をめぐる二項対立にとらわれてはいないだろうけれどね、そう願いたいが。だけれど、相変わらず、文献学の近代の風景というか、戦前はヨーロッパ、戦後はアメリカなのであるが、遠くからしか、外部の他者とともにある自己との関係を読みなおすことができない。そうでなければ無意味と考えてしまうとか。厄介だな。これは、サルトルは何というだろうか、超越性に関わる自己欺瞞に苛まれる近代の問題であるとおもう。最初に戻ると、安倍だけが<違い>がみえないのか?問題は、アジアに対する無関心、最初に戻ると、安倍だけが<違い>がみえないのか?問題は、アジアに対する無関心、関心をもったときは自動仕掛けの如く反中国的言説に絡みとられていくのはなぜ、一体こいつはいつ誰の言説から始まったことなのだろうか?