なぜ映画は隠蔽できないのか?

なぜ映画は隠蔽できないのか?

長年探してきましたが、投射できる国は見つかりませんでした。投射できる歴史はあるかどうかはまだわからないです。「前近代」という言い方でネガティブに指示されるけれど、偉大なる古典時代は忘却してはいけないんだとしたら、自らを歴史に向かって投射してようとおもっています。投射できる本はわたしに数冊あります。投射できる投射、映画のことですが、これは、10本あるかしらですかね。さて「投射」というと、なにか、自己に都合よく物事を還元してしまう態度だと勘違いされているようですがね、しかし投射は隠蔽できないのは、どんな映画も隠蔽できないことと同じで、このことは、映画においては言説的なものから可視的なものが離れていないことによるのだとおもいます。それは演劇との決定的な違いです。もし仮に、投射は言説的なものしかもたなければ、そこに隠蔽が成り立つことになるでしょう。そこから隠蔽とは何かが明らかになります。つまり、逆に、投射された物から、その物と投射する人間との関係を原理化していく<歴史>の方向をともなうことがなければ...それは神話的思考にとどまるだけかもしれません。この前提に、いつ人間が現れたのかという問題があります。人間をみるためには、言説的なものと可視的なものとの関係を神話的かつリアルに打ちたてる必要があります。