ポストモダンの時代に根拠を与えることを考える意味は何か?

ポストモダンの時代に根拠を与えることを考える意味は何か?(1)

言語が先行する。ポストモダンは非在郷( les utopies) の人を慰めてくれる言語で語られる見方の中でそれとは異なる混在郷( les hétérotopies) の読み難く不安をあたえずにはおかない自立的言語によって考えた。「言葉を枯渇させ、語を語のうえにとどまらせ、文法のいかなる可能性に対しても根源から異議を申し立てる」(les hétérotopies dessèchent la propos, arrêtent les mots sur eux-mêmes, contestent, dès sa racine, toute possibilité de grammaire. Foucault)

根拠は自らのもとに帰るために迂回しなければならない。‪例えば、漢文エクリチュールの国家的原初に遡る言説は自己に帰るためには、忘却されてしまった、漢文体で書いた世界史的な社会契約論的な語りを読まなければならないのである(講座「明治維新の近代・7) そうして政治的多元主義の方向性において自己同一的なものが成り立つことはない。

ポストモダンの時代に根拠を与えることを考える意味は何か?(2)

原発災害が起きた年に行われた講義『20世紀の精神』(渡辺一民)は、ポストモダンの時代に根拠を与えることを考える意味を問うものであったと言っていいとおもう。20世紀近代のサルトルハンガリー事件まで決定的なスターリン批判を行わなかったが、戦中にファシズムコミュニズムとのあり得ない協力関係が成立した事実が明らかになっても、スターリン主義という神話に対する反抗がなかったのはなぜなのか?ポストモダンは、問題を、根拠を与える理性そのものの否定ではなく、根拠を与える理性との関わり方として構成しようとする。この方法は今日のアジアのあり方を考えるうえで役立つようにおもう。現在アジアの民主化が根拠を与える理性との関わり方を問うているところに、権力-理性はそれを根拠を与える理性そのものの否定として措定して囲い込んでいるのである。近代主義み顕著に全体化とかかわることであるが、そうして権力-理性の側から、理性と暴力の二項対立の神話が捏造されているのではないか?

ポストモダンの時代に根拠を与えることを考える意味は何か?(3)

この問いはこう言い換えてみよう。ポストモダンの時代にかつて存在した映画たちを考えることの意味はなにか、と。映画は自らをスクリーンに向かって投射する。ゴダールはその投射によって映画が存在するか照らし出そうとした。投射は、語る主体の言説をもつことによって、語る主体の言説が成立する。語る主体は存在するから存在するのではない。語る主体は語る主体の言説が存在するから存在するのである。見る-語る主体は同時に見られる-語る主体である。(ゴダールの見る-見られる-語る主体は、フーコ『言葉と物』によって、読み出されていく。) なぜ語る主体が問題となるのか?それは、国家を相対化するために批判を書くことができる究極の主体を形成しようとするからではないか。『映画史』においては、黄金の80年代といわれた追求した天の自由を豊かにするために、「思考の形式」として自らを権威とするあり方を再構成している。‬(発言集 Godard par Godard は、1980年から1988年を、天と地の間の時代 les années ciel et terre としている) 「そこで私はこう想像しました...こう考えました。『ぼくは映画を何本かつくったわけで、それに、映画をつくるというのは結局、一連の写真を記録するということであるわけで、だからぼくの場合は少なくとも、それらの映画を見直すことができるし、自分の過去を振り返るためには、少なくとも、自分自身を精神分析するかのように、そうした(自分の映画という)過去と、映画の世界のなかのぼくが今いる場所から出発することができるはずだ』と。でも私は今では、こうした考えは幻影にすぎないということがわかっています。それに私はまた、最も容易にできるはずの、映画史をつくるという作業そのものが、実際には完全に実現不可能な作業だということに気づきました。ここでなされているように、ある映画を見、あとでその映画について語るということならできるのですが、でもそれは仕事としてはかなり貧弱です。だから、別のなにかができるようにならなけれならないのですが、でもたぶん、その別のなにかはすぐにはできないでしょう。」(ゴダール)‬

Alors je m’étais imaginé... enfin... je pensais... ー je découvre que c’est une illusion ー que dans le cinéma ー puisque j’ai fait des films ー je pourrais au moins les revoir ー puisque faire des films ça consiste à enregistrer des séries de photos ー et que je pourrais au moins partir de ce passé-là pour revoir le mien, comme une psychanalyse de moi-même, et de l’ endroit où j’en suis dans le cinéma. Et je me suis aperçu qu’effectivement,‬ l’histoire même du cinéma qui devrait être la chose la plus facile à faire est absolument impossible à voir. On peut voir film et puis à ensuite en parler; c’est ce qu’on fait ici; en même temps, c’est assez pauvre comme travail, donc il faut arriver à faire autre chose. Mais cela ne peut peut-être pas se faire tout de suite. (Godard)‬

ポストモダンの時代に古文書を読む意味は何か? 古文書は、投射としての多様体である。(と、そう考えてみたらどんなことが言えるのか?) 言説が照らし出される。語る主体の言説が照り出される。だが語る主体は語る主体の言説が存在するから存在するのは、それは主体なんか存在しないと言うのと等しい。解釈と形式化を行う人間が解体されている表層を読むしかないのだ。こうして古文書において深読みは禁物。言い表わされたものは希少なのである