MEMO

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すこし元号との個人的関係(ちっと変かな)について振り返ってみますと、1978年に福田赳夫派は元号法制化実現国民会議元号法の制定を明言しているんですね。福田派の官僚だった父は青春時代が大政翼賛会ファシズムの時代でしたから、元号について話す福田の講演会に怒っていた姿を今朝思い出しました。「昭和」が終わったときは、確か公害企業の前で三ヶ月座りこんでいたときでしたか、何か重いものがとれたと感じました。朝日ジャーナルはまだかろうじてありましたし、大岡『野火』のインパクト(戦後文学がもたらした罪悪感)がなくなってはいない時代でした。「平成」になにも感じることがありません。前に書いたのですが、「平成」の名を考えるとき、「平成」の名前の由来は、『史記』の「内平外成」、『書経』の「地平天成」からで「国の内外、天地とも平和が達成される」という意味で説明されたのを覚えています。イラン戦争のときは、海外にいましたが、アメリカがぶっ壊し日本が商売で再建するとよく言われたものです。国民が拍手している「平成」とは、戦争していないという自己欺瞞、このことを考えないわけにはいきません(自身への批判を込めて)。元号についてアドバイスできるほどの偉い?漢文学者も90年代に絶えたと聞きます。「令和」の発表はただ滑稽に感じるだけですね。天皇好き、元号好きの「日本人」を憐れにおもいます。「日本人」とはだれなのか?そのこととは別に、『万葉集』とはなにか、近代が解釈する『万葉集』の問題は力不足ながら取り組む必要を思いました。今回の反応で気になっているのは、「ますらおぶり」は「日本文化」の「本質」か?と問題提起なさっている方がおられたことです。子安先生の本を読んだわたしの理解で恐縮で、間違いがなければ、本居宣長は古代の言葉(古言)を明らかにするためには古代人の心を理解しなければいけないというので「やまとごこころ」を仮に考えてみたらどういうことが言えるかとしたように、師の賀茂真淵が「ますらおぶり」について言ったのであり、彼らの方法論は方法論であり、実体化とか本質とかに関わることではありません。「やまとごころ」「ますらおぶり」を実体化して考えていた宣長像や真淵像を作ったのは近代主義者たちです。だから宣長の合理性と非合理性の矛盾みたいなことを指摘しました。長くなりました、もう話をまとめないといけませんが、元号っていうものも、近代の最後のあがきなんじゃないでしょうかね。近代というのは自分に都合よく解釈した過去だけを必要としていて(例えば元号の古代)、前近代から決して異議申し立て受けないようにしてきたのですが、もうそれは無理でしょう。まとめますと、と、いよいよまとまってきませんが、戦後の昭和は罪悪感、平成は自己欺瞞、そして令和は無意味...

‪ ‪‪ ‪‪ ‪「元号は、皇室の長い伝統と、国家の安泰と国民の幸福への深い願いとともに、千四百年近くにわたる我が国の歴史を紡いできました。日本人の心情に溶け込み、日本国民の精神的な一体感を支えるものともなっています」(安倍晋三) 笑止。千四百年まえ?「日本人」という民族が現れたのはそんなに古い時代なのか?宜しい、仮にそうだとしよう。ただしここで、昭和思想史研究会の講座(子安氏)で学んだ津田左右吉の国民思想の見方からヒントをもらうと、国家が成り立ったというためには、国家は民族が依拠するわれわれ自身の文学の精神をもっていなければいけないだろう。その意味で、貴族が書き記した『万葉集』などは半外国文学みたいなものでしかない。ここに民族が依拠するわれわれ自身の文学の精神は微塵もない。文学の精神は漢字を(あたかも考えるための道具箱のように)自分たちのものにする17世紀(漢字受容から千年要した)まで存在しなかった。とすると、国家がわれわれ自身の文学の精神をもったのは、身分の枠組みを超える注釈学の学問が展開する近世(500年前)からということになるか?しかしその国家は完成することなく、安倍政権が帰ろうとする明治維新というクーデターによって、天皇専制国家としかならなかった。それは平等の民が住処とする国家としては自立してはいない。‬「王政復古」という名のクーデターが「脱身分などより急進的かつ徹底的な変革を可能にした」というのは、結局安倍の元号「令和」を説明する言葉と同様にね、民主主義がない国の嘘をつく公のナレーションの類い

beautiful harmony (era name 令和) = militarism(令)+ fascism (和)

徴は至るところに... 凡庸なものに読み解かれるのを待っている <オリジナル> ‪の徴である‬万葉集を拒んで漢詩を見つけても、べつの<オリジナル>に絡みとられているだけかも、ホント厄介だね。アベ日本会議の新しい時代の<オリジナル>を鋳造するナショナリズムの罠にはまるよりは、不快・不解に留まって、深く読み解かず、愚鈍に見るだけで、元号と<オリジナル>をさがさせるその言説から離れたほうがいいのじゃないかしら

哲学者と詩人とでは廃墟を見る見方が違うのですが、ちょっとこのことを考えました。面白いです。かつては世界と思考のあいだには共通のものがあったのに、現代はどんどん失われていくばかりだという哲学者の嘆きが伝わってくるような。ノスタルジックに偉大な世界があったわけですが、詩人は世界そのものがもう感じられない世界は失敗しているというような感じ方を表現しますよね。映画は終わったと語ってきたゴダールは哲学者と詩人の両方をもっているようにみえます。このことを伝えるために、映画にソシアリスムという名を与えたとおもう。ほかの名ではあり得なかった。 『ゴダール・ソシアリスム』は、2009年製作、2010年公開、ジャン=リュック・ゴダール監督によるフランス・スイス合作の長篇劇映画である

ノマドといわれる生成的な内在性は、ギリギリ理念的なものである。万物の生成が思考されたのに、日本の哲学者のようにカントのドウルーズに還元してしまうと結局、人間の有限性という本来性の言説に絡みとられないか?「生成の道の根元性」(鈴木雅之)を学んだが、平田篤胤コスモロジーと一緒に考える‬ Le nomade a un territoire, il suit des trajets coutumiers, il va d'un point à un autre, il n'ignore pas les points (point d'eau, d'habitation, d'assemblée, etc.). Mais la question, c'est ce qui est principe ou seulement conséquence dans la vie nomade. ー Gilles Deleuze et Félix Guattari

‪現在フランスの思想家の没落がいわれているが、随分前からパリにサルトルといたベケットのようなボヘミアンのアーチストはいないのである。未だロンドンにボヘミアンたちが生きる隙間があった。イギリス人に芸術を教えていた。恩知らずの酷い仕打ちだ、私の詩の先生もBrexitで出国を余儀なくされている‬

ピュリスムの中でもTrumpesqueの大きな問題は人間を無意味化してしまう点にあるとおもう。日本のトランプを仰ぐ者たちから、経済が決定するのであり民主主義は補うというような考え方を聞く。しかしもし彼らは戦前日本の問題を知っているつもりならば、「王政復古」とされた「明治維新」のクーデターが帰結した昭和10年代の全体主義の暴力の歴史的事実は、自由に喋らせてくれと要求する民主主義の道に立った経済でなくては道徳的存在はやっていけなくなることを示していたことを一緒に考えてみるべきだ。<明治維新150年>を称えはじめた?アジアにおける日本会議アベ体制の問題がみえてくるかだろうか

やっぱりね... 見よ、これら一面たちを。新聞に裏切られるのは、戦争のときだけではないよな