ゴダールの映画『イメージの本』の感想

イメージの本に先行しているのは、本のイメージ、すなわち映画を思考手段とする思考のイメージである。それは自己の周りにあるものー卑近なものーを示すことによって、自己自身を考える方法である。

トータルに考えることが不可能となっているのは、知識がないからかではない。自分を知らないからだ。遠いところからトータルに考えることによって、外部にある過去との関係を考えられなくなったことによる。隣どうしの卑近なところから過去を考えれば、普遍(理念)として確立した物の見方ではやっていけなくなってきたときそれとは異なる見方があったことがわかる。質問することによって、普遍(理念)はたえず再構成され得る。倫理的に一つに非ず。

ドウルーズはいう。「ゴダールはうまいことを言っています。『正しい映像ではなく、ただの映像さ。』哲学者もこんなふうに言いきるべきだし、それだけの覚悟をもってしかるべきでしょう。『正しい理念ではなく、ただの理念さ』とね。」(『記号と事件』)

1980年代のゴダールはトータルに考えるために外部にある過去との関係ースイスの故郷との関係ーを知る必要があった。

この方法から、ヨーロッパはトータルに考えるためには、外部にある過去との関係ーイスラムとの関係ーを知る必要があるだろう。たとえば、文字を発明したメソポタミア文明との関係がみえないので、現在アメリカが行なっているこの地域への侵略がどんな意味をもつのかをトータルに考えることができないでいるのかもしれない。アメリカは文字を侵略していると考えてみたら、どんなことが言えるか?新しい普遍を再構成しようとするわれわれの思考が依拠する言語と言われるものを支配するつもりではないだろうか?‪これが、‬‪トータルに考えるためには、外部にある過去との関係を考えることが大切であるということの意味である。‬

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