MEMO

美術館の一室で貴族の肖像画の前に立ったときに覚えるような昨日今日のこの虚ろな感じときたら?一体何だろうな?此方(見ているもの)に対して全く関心をもたぬ冷たい視線を一生懸命理解しようとするから起きる拷問を受けるような疎外感である。愛していないものを愛しているふりをして、遠い所からトータルに考えようとしても無理なんだ。隣どうしの卑近な所からトータルに考えることが自分にとって大切かもしれない。自己自身との関係が、外部にある見えなかった過去との豊かな関係といっしょにみえてくるというものさ

天皇をやることに祈りの旅も含めてやる気を失ったから退位するあり方の意味を一番知っているのは日本会議の‪イデオローグ‬と文化人たちではないか。天皇制の終了である。元号のオリジナリテイを作ってもどうにもならない。元号の無意味と危険を教えてくれたのは金井美恵子。新しく作る近代に絶望しているほどではなかったのは、明治維新の近代の批判を避けているからである。しかしこれからの事だけど、制作論なき言説は、日本会議の安倍政権の天皇教的国家の制作をどれほど解体できるのだろうか?

ゴダールの映画『イメージ・ブック』が問う<イメージの本>はなにか? <イメージの本>に先行していたのは、不透明な他者である<本のイメージ>だろう。それはゴダールにとって<白紙の本>だったかもしれない。しかしそれはすべてではなかった。ゴダールは<白紙の本>のなかでそれとは異なる<イメージの本>を考えようとしている。新しい普遍に向かって関係をうちたてないともうやっていけなくなった。自由に喋らせてくれという方向に分裂していく思考のスクリーンを構成するものとしての<イメージの本>を人々がもっているか?

トータルに考えることが不可能となっているのは、それは外部にある過去との関係を考えられなくなったことによる。過去を考えれば、普遍として確立した物の見方ではやっていけなくなってきたときそれとは異なる見方があったことがわかる。普遍はたえず再構成され得る。倫理的に一つに非ず。 たとえば、ゴダールへのインタビューを解釈してかんがえてみたことだけれど、文字を発明したメソポタミア文明との関係がみえないので、現在アメリカが行なっているこの地域への侵略がどんな意味をもつのかをトータルに考えることができないでいるのかもしれない。アメリカは文字を侵略していると考えてみたら、どんなことが言えるか?新しい普遍を再構成しようとするわれわれの思考が依拠する言語と言われるものを支配するつもりではないだろうか?‪これが、‬‪トータルに考えるためには、外部にある過去との関係を考えることが大切であるということの意味である。‬<イメージの本>は考える、ゆえに‬<イメージの本>は存在する

隣国とマイノリティー、他者にたいしてなんの感性の成長も無かった「平成」の総括に何か意味があるの?

‪理(ロゴス)は人間の生と死を見届けている。朱子の鬼神論によると、理はただ気の上にある。理(ロゴス)は人々の生死を言説化していく。人間は気が集まったとき生まれてくるといわれる。死ぬときは、魂気は上へ行き、魄気は下へ行き消滅してしまう。魂のほうはそれが散じ切って消滅するまでは生者との間に感化の大きな運動としてある。ここで問題は、魂はそれほど長い時間存続しているならば気ではなくて理ではないかという疑問である。これによって、理か気かと解釈し尽くす二項対立が崩される。おそらくは、理(ロゴス)の言説にたいして微妙な影響をおよぼしているものがあるのである。それを目に見えなかった映像と呼ぶことにしたい。‬

ゴダールの映画『イメージ・ブック』の前半は、ゴダールの『映画史』(Histoire(s) du cinéma)を発展させたもので成り立っているから、『映画史』をしっかり見て欲しいと願うものである。『映画史』は、1988年 - 1998年の間に断続的に製作および発表され1998年に完成した、ビデオ映画シリーズである。『映画史』とはラングロワとトリフォーへのオマージュであると言っていい。『映画史』はいかに目に見えないものを目に見えるものと関係づけるかという言説的構成をもっている。ラングロワとトリフォーの魂の気とは、それが散じ尽くす前に時間があるから、コミュニケーションをとることができると考えてみるのである。それによってどういうことが言えるか?『映画史』を形作っているのは、天地の間、すなわち目に見えないラングロワとトリフォーとゴダールの間に往来している感化の大きな運動である。『イメージ・ブック』では、目に見えない、ヨーロッパにとっての他者とのコミュニケーションのあり方が問われることになった。『イメージ・ブック』は、『映画史』のポール・ヴァレリーに言葉をひいた言葉を呼び出す。「かすかな声、おだやかな、か細い声で、大それた、重大な、驚くべきことが、深く、そして正しいことが語られる」と。映像はイスラムの女性とおもわれる人間の身振りとジェスチャーである。『イメージ・ブック』と『映画史』のナレーションは反時代的精神が吃る形而上学的ロゴスである。はじめにロゴスありき。ロゴスは感化の運動の上に泊まっている。ロゴスは言語的存在が自身が存在する宇宙論的な意味を問う。ロゴスは時間に先行する論理である。時間のイメージに先行する思考のイメージである。天との関係において世界の諸々のものは平等である。 ‬

ゴダール派からすると、タルコフスキーのような監督は映画の外に何かの存在を信じているのはいかにも容認できません。むしろゴダールの構成は、宗教的なものが映画を住処としているというものです。ゴダールは、もしロッセリーニのようであればキリストの説教する映画を作ったかもしれませんが、ソクラテス的に論争的です。「あなたのは映画ではありません」と繰り返されてきた反発に対して、「では何が映画なのか?」と切り返した『映画史』は、メタ言語的に、イメージとはなにかという解釈を解釈していったのでした。この『映画史』のナレーションの特徴は、ずっと言われてきたことをはじめて喋る語り方にあります。そしてそこで誰も語らなかったことをずっと語られてきたとするのです。映画であるとされるものも映画でないとされるものも、他者の「手」を住処としなければならないことが言われているようです。こんなことはだれも言ったことがありまでん。(それはフィルムを編集する手のことかもしれません。それならば意味が通ります。だけれど手に委ねられた映画からは決定的な映画がつくられなかった、アウシュビッツを撮った映画は現れなかったことを強調しています。) たしかに、卑近な人の「手」から行うことでしょう。そこにとどまることなく、映画が住処とする他者の「手」にもっと思考の形式が要請されるのでしょう。世界というスクリーンに向かって投射されるべきその形式とは、すなわち、「すべての歴史」「ただ一つの歴史」「映画だけが」「命がけの美」「絶対の貨幣」「新たな波」「宇宙のコントロール」「徴は至る所に」‬