MEMO

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Chaosmos of Alle 

万物のカオス(コス)モス


ーFinnegans wake  James Joyce



‪映画というのは、方法としての神話だ。フレームは操作による(世界の)変形だ。フレームのなかに世界をとらえようとすると、世界は全体であると同時に枠づけられた世界は部分である。全体は全体である。全体を部分にすることができないのだから、これはフレームにおける矛盾だ。(スクリーンへの投射はこの矛盾を隠蔽してしまう。) そこでレヴィストロースが言うように、フレームに起きる矛盾に仮面を被せてみよう。何がみえてくるか。カオスがコスモスに先行していたのだ。ロゴスはギリギリ要請されるとしても、統一などできやしない。フレームから考える映画の方法としての神話的思考は、デリダ脱構築論、ドゥルーズリゾーム論‬とおなじ物の見方をなすとおもう


ダブリン時代のピンタの映画の特集を10日間やっていたときの話ですが、インテリがユダヤ人問題を考えるという映画だったので私は全部みたのですが、映画としては耐えられないほどつまらないものでした。わたしはいつも映画における構図を考えるので大抵は同じ席に座るのですが、毎日ガラガラの映画館のなかで毎日自分の前に同じひとが座っていました。体格がよく帽子をとらず行儀悪く前の席に足をのせて映画を最後まで見ています。ある日、観客は、私とその彼だけでした。とうとうこの日が来ました。多分浮浪者だろうこの男に、「あなた、こんな映画、一体何が面白いの?」と顔をのぞいてきく日がきました。だけどそのときは帽子をとっていて、頭に包帯を巻いていて、何か聞く気がなくなりました。思い出の中では、この男からみると毎日同じ背後の席に座っているこちらのことも怪しいと感じたのだろうけれど、彼はアイリッシュにしては外国人慣れしている。それから二人は闇のなかに...あとで、そのときは彼がダブリンに来ていて映画館の男がピンタその人だったことを知りました。ピンタはノーベル賞受賞がきまったことをこのダブリン滞在中に知ったようです。


Être de gauche c’est d’abord penser le monde, puis son pays, puis ses proches, puis soi ; être de droite c’est l’inverse.  Gilles Deleuze


恵比寿の「去年マリエンバートで 」L'Année dernière à Marienbad


‪「去年マリエンバートで 」とは何か?それは、自己のまわりから外部を考えることができるかという問いかけである。われわれはフランス風の庭園から彫刻と共に立って建築を見る。その中では、長い廊下に沢山の類似しあった部屋があるのに、もはや記号はものを引きよせ結びつける力が失われていることを知る。記号は認識でなければならなくなっている。過去における類似物と相似の意味世界は認識にとって周縁となってしまった。それにたいして、映画は、記号を、ラディカルに記号が記号として成り立たたない認識の体制から脱出させた。そうして今度は記号が外部から自分のまわりを考えようにできるために。外部からなにが自己のまわりに見えてくるか?ここから、不可避の他者が立つ外部における卑近から、「去年マリエンバートで 」とは何かを問うことの意味がでてくる‬


トリエステまでいくと南ヨーロッパとトルコが感じられたものだ。ブルガリアの女性が、スペインから排除された人々をオスマン帝国が助けたと喋っていたのを思い出す。ヨーロッパのイスラムとの関係についてこれを一体的にすることは難しいのは何故か?問題は、スペイン行った「ホロコースト」の16世紀に遡る。イスラムは自分たちを排除することによって成立した「近代」を全面的に受け入れることは不可能なのだ。‬この排除された人々ースペインのイスラム人ーの歴史を忘れてしまっては、新しい普遍主義を再構成していくことはできないのじゃないかね


アルチュセールがやったように、マルクス剰余価値の理論を国語という思想に適用できないか?日本語は一国的自立言語であると教えられる。それは記号であるかぎりにおいて内部に普遍的な表象能力をもたなければならない。透明な自己自身のために整えられているとする音声主義の言説の極端において、漢字には豊かな文化を実現してくれる表象能力がないのである。しかしほんとうにそうか?この思想の問題は、漢字圏の言語から、「多様的漢字受容世界」(子安氏)から、意味作用の配置を盗んでいる点にある。一国民主主義の思想と共に、ヘイトスピーチナショナリズムを生み出している。


「ラジオになること」、「エレクトロニクスになること」、「分子的なものになること」といった万人の生成変化に武器を提供するものなのだ。これらすべての決定不可能な命題を通過しない闘争は存在しない。すべての闘争は、公理系による接合に対して、革命的な連結を構築するのである。―D=G (下)p245



‪かつてオーストリア帝国に属していた、ハプスブルク家別荘があるトリエステに、カフカの城みたいな城跡がある。ジョイストリエステにいた。ダブリンから行くときは、ドウルーズのマイナー文学の意味を考えた。動物に成ること、イデッシュ語を以て、ゲーテ普遍主義を解体する、周辺の普遍主義を政治的に書くマイナー文学の意味。脱出ならば、それと同様に、他者('学者さん')に成ること、17世紀の漢文読みを以て、徳川ジャパンの普遍主義を書くという、解体朱子学の古学にもあった、そう考えることができないだろうか。



もう人間とはおさらばだ、

妖精と共同生活しよう

とりあえず現在もっているものと

できそうなことをクレヨンで書き出してみた...

国際便で何ヶ国も彷徨う19箱の本たち、

マイナーなものづくり、地下茎のように

共通の部分が腐ったガラクタ学問、

そして思想史的遠足


The Logic of the Place of Nothingness and the Religious worldview (1945)

ーKitaro Nishida (trans. David A.Dilworth)


Not everyone is an artist. But to some extent at least everyone can appriciate art. Nor is everyone a theologician, and rare is the man who experiences a religious conversion. To some degree, however, any person can understand religion. There is probably no one who does not feel a strong resonance in the depths of his heart when he reads the fervent confessions of belief of the great religious figures. Moreover, upon falling into condition of extreme unhappiness, there is probably no one who does not feel some religious sentiment welling up from the depths of his own soul. Religion is an event of the soul. Philosopher cannot fabricate religion from their own thought system. They must explain this event of the soul. To do so、they must experience religious in themselves to some degree



‪ダブリン時代にハロルド・ピンタの映画の特集を10日間やっていたときの話ですが、インテリがユダヤ人問題を考えるという映画だったので私は毎日映画館に通って(IFC)、全部みました。問題提起がありました。ただ正直、映画としては耐えられないほどつまらないものでした。わたしはいつも映画における構図を考えるので大抵は同じ席に座るのですが、毎日ガラガラの映画館のなかで毎日自分の前に同じひとが座っていました。体格がよく帽子をとらず行儀悪く前の席に足をのせて映画を最後まで見ています。ある日、観客は、私とその彼だけ。とうとうこの日が来ました。多分浮浪者だろうこの男に、「あなた、こんな映画、一体何が面白いの?」と顔をのぞいてきく日がきたのです。だけどそのときは帽子をとっていて、頭に包帯を巻いていて、何か聞く気がなくなりました。思い出の中では、この男からみると毎日同じ背後の席に座っているわたしのことも怪しいと感じたのだろうけれど、彼はアイリッシュにしては外国人慣れしている。アイリッシュではない。沈黙。それから二人は闇のなかに...。あとで、映画館の男がピンタその人だったことを知りました。ピンタはノーベル賞受賞がきまったことをこのダブリン滞在中に知ったようです。‬彼の『ハッピーバースデー』をロンドンで観ました。闇のなかで誰が何を喋っているかわからない場面があります。パッと舞台が明るくなると、死体があります。と、この芝居の闇によって、あのときの闇は何だったろうのかということを考えていました。わからないままですが、「黒板」のようなものではなかったでしょうか?誰が何を喋っているかわからない外の暗闇に書き続けるしかないわけで、「意味」がでてくるまで...‬


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昨年から脚を痛めてもう遠くにいけないかも...痛いと知らない暗いところに歩くのが大変とおもってしまうのだね。わたしはこの芝居を知らないのだけれど、面白そう。「指令」「察知」「不安」かあ、なるほどね、ハロルド・ピンタの世界かもね。中々字がうまい!「外部」もあるとおもうよ。それから「意味」。ところで、「指令」「察知」「不安」と「殺し屋」との間に共通なものはなに?

わたしも、手も足も出ずという感じで彼の『ハッピーバースデー』をロンドンで観ました。今回投稿された写真を見て、「指令」「察知」「不安」と「殺し屋」に共通しているとみえたものは...「黒板」でした。誰が何を喋っているかわからない外の暗闇に書くしかないわけで、意味がでてくるまでね


Becoming walk of Duchamp's bachelor-machine, becoming girl and plant, becoming process itself, becoming space of...

ー D=G


アレンジメントは内容と表現の区別に従属しているかぎりでは、まだ地層に属している。(…)しかし内容-表現の区別が新しい形象をおびているかぎり、厳密な意味ではすでに、地層とは別の要素にわれわれは直面しているのだ。――(下)p306


彼(三木清)の言う修辞学というのは、つまり社会を分析するんじゃなくて、社会をいかに動かすか、いかに変えるか、というような手だてとしての学です。そういう修辞学がわれわれには欠けているということを三木氏は力説しているんです。

小田実『対話篇(中村真一郎との対談)』1973


「アジアになること」も、「分子的なものになること」と同様に、万人の生成変化に武器を提供するのだろうか?『漢字論』のあとに、だれが良質なアジア主義の修辞学を書くのか?


ヤジは自由であるが、やじってきた相手に「ヤジるな!」とただすときは先ずは自分をたださなくてはね。安倍の問題は、隣国を批判するときはまずは自分をたださなくてはいけないのに


‪昨日は高田馬場の喫茶店で象徴性をめぐってワイワイガヤガヤと話し合う時間をもった。これは、国民に主権があるということは国会に議論があることであるはずなのにー選挙制度によらずー、国民の間で危機に感じられていない危機を考える視点を与えてくれた。今朝思い出しながら不十分ながらも私なりに理解した仕方で整理してみた。あるものの見方が一度確立されるとそのなかでそれとは異なる見方をするのが困難となるこの意味で、戦前において確立した国家祭祀と天皇機関説は両立しないように、平成から確立した祈る天皇の象徴性がつくりだす統合と国民主権は両立することがないのである。象徴性の代償としてこれからわれわれはなにを犠牲にしなければならないのか?これは民主主義の問題である。これに関してきちんと思想史的に子安氏が12日に大阪で、14日東京でお話しするので、そこで考えを深めたいとおもう‬


The idea that free-trade imperial states use informal controls to secure their expanding economic influence has attracted Marxists trying to avoid the problems of earlier Marxist interpretations of capitalism. The approach is most often applied to American policies. (Wiki)


Reviewing the debate from the end of the 20th century, historian Martin Lynn argues that Gallagher and Robinson exaggerated the impact. He says that Britain achieved its goal of increasing its economic interests in many areas, "but the broader goal of 'regenerating' societies and thereby creating regions tied as 'tributaries' to British economic interests was not attained." The reasons were:


the aim to reshape the world through free trade and its extension overseas owed more to the misplaced optimism of British policy-makers and their partial views of the world than to an understanding of the realities of the mid-19th century globe.... the volumes of trade and investment...the British were able to generate remained limited....Local economies and local regimes proved adept at restricting the reach of British trade and investment. Local impediments to foreign inroads, the inhabitants' low purchasing power, the resilience of local manufacturing, and the capabilities of local entrepreneurs meant that these areas effectively resisted British economic penetration. (Wiki)


国事行為ならば儀式である。しかしその逆は真ならず。それは国事行為でなければ、無限定に国民を統合する象徴性をつくり出して国民主権を破壊する危険があると憲法は抗議している




seq2 事物(もの)のあいだとは、相互に一つのものからもう一つのものに及ぶ定位可能な関係を指すのではなく、一つともう一つを両方ともまきこんでいく垂直的方向、横断的運動を指すのだ。始めも終わりもなく、両岸を侵食し、真ん中で速度を増す流れなのだ。p.61



‪Kleist, Lenz ou Büchner ont une autre manière de voyager comme de se mouvoir, partir au milieu, par le milieu, entrer et sortir, non pas commencer ni finir. ... C’est que le milieu n’est pas du tout une moyenne, c’est au contraire l’endroit où les chose prennent de la vitesse. Entre choses ne désigne pas une relation localisable qui va de l’une à l’autre et réciproquement, mais une direction perpendiculaire, un mouvement transversal qui les emporte l’une et l’autre, ruisseau sans début ni fin, qui ronge ses deux rives et prend de la vitesse au milieu.‬


D=G





土曜日の子安氏の講座で、尾崎秀実の、ひとつともうひとつの両方を突き動かす為に先ず日本が自らを変革する横断的運動、世界革命としてのアジア主義の透明な意味を考える。津田左右吉におけるラデイカモダニズムは「シナ」を消去するが、尾崎のアジア主義の言説は中国を書いたのだ。だが尾崎の知的誠実さは、明治維新の近代が極端へ行く昭和十年代にとって不透明である


統合の象徴性は憲法の分裂する力を奪ってしまう。「立場を超えて皇室に共感」(大澤真幸)という。No!それは意味があるのかと問う分裂が人間であるかぎりにおいて必要である


明仁天皇が実現していったのは「解釈改憲」的象徴天皇像である。」「そして今、新たな象徴天皇の即位に当たって歓呼する国民は、新たな「ノモス的主権者」たる象徴天皇に真の主権者たる自負も自覚も譲り渡してしまったことを知らないのである。」

(子安宣邦氏 天皇の「象徴的行為」について)


ナルちゃん、ピンチ!君のパパの象徴的行為(清宮説)は解釈改憲的で、意図せずに戦前との連続性もあるかもよ。この天皇のあり方を継承してはならない。賢いマサコさんが教えてやれ


それゆえアレンジメントにおいては、これらの表面よりもなお深い何か、前提しあう二つの形式、つまり表現の形式あるいは記号の体制(記号的体系)と、内容の形式あるいは身体の体制(物理的体系)とを同時に考慮するような何かに達しなければならない。それをわれわれは抽象機械と呼ぶ。――(上)p289


宮沢は天皇機関説を支持していた。象徴が象徴となるのは宮沢説がいう憲法の定める国事行為のうちにおいてであって、清宮説がいうような象徴行為のうちにおいてではない。令和天皇はex天皇の象徴行為的天皇像を継承するという。万歳三唱!未来を思い出す悪夢ー戦前からノモス的主権の言説が国民主権を奪ってくる


権利のない社会に反対!象徴行為的天皇像と共に、戦前からノモス的主権の言説が国民主権を奪ってくる時代において、新しい転向というものを考えるとしたらが誰が転向しているのか?



‪ ‪現在は『朱子語類』と宣長を読んでいるのだけれど飯田橋『仁斎論語塾』の二次会のワイワイガヤガヤのお喋りのときだったのだけれど、最近「思想史研究会」講座から参加してきた洋書翻訳をよく読んでいる仲間と喋っていると、「注釈」についてのイメージが彼と違うことに気がついた。その人がもっている「注釈」は語の説明なんだね。点と点との翻訳的対応をおもいえがいているように感じた。‪わたしは思想史アマチュアだが‬、私の考える「注釈」はむしろ線と空間との関係である。思想は自らをあらわすためには言語を要する。命題が言語となっていく時代がある(フーコはこれを「古典主義時代」という。はじめて言説が命題のかたちで言明されるようになった) 。命題とは、自らをも分析する、分析の順序をもっているという線的構成である。それに対して思想というのは平面なんだね。われわれは空間を考えるときは絵をみるときのように同時的に全体をみる。そうだと考えると、問題は、線はいかなる権利にもとづいて、平面をあらわすことができるかということ。言語は分析の順序をもってみていくかぎり、空間を同時的にとらえることができない。線は不可能性をいかに解決するのかである。おそらく解決できないだろう。そこで注釈の出番ということになる。空間の普遍的なものは存在しているのではなくて線において要請されているのである。「注釈」はこのことを書くのである。それは「注釈」を超えた思想かもしれない。語というよりは、言説への従属を拒む<言葉>なのだ。そうして『童子問』の仁斎は、中国における言語支配者の垂直的に遠く高くある普遍主義に対して、水平的に自分のまわりにある卑近なものにこそ普遍主義があると考えたとき、<言葉>から「理念性」を発見したのである。中心は言う。思想の普遍性を書くためにはその言語に普遍性がなければいけないと。 その普遍性は周辺において存在しないからこそ要請されるのである。 17世紀のその「理念性」は垂直と水平から成る新しい思考の斜線であったとわたしは理解している。‬儒者たちはこの斜線において多様性の思想を権利として自分たちのものにしたのである。



‪古典主義時代における「語ること」は命題の線的構成によって可能となる。それは分析の順序をなす。そこに言説がはじめて成り立つことになったとフーコは言う。さて思想は絵画のように全体を同時的にみなければみえてこない平面であるとき、思想は自らをあらわすとき命題すなわち順序の分析である線的構成において可能なのか?不可能だと答えることは単純すぎる。渡辺一民氏がやったように多分『言葉と物』の絵画分析をかんがえながら第四章『語ること』を読むときは、そう単純にはならない。問題は、問いが前提としている全体の概念である。よろしい、還元され得ない思想の空間は普遍主義であるとしよう。だけれど思想はそれほど全体性なのかという問題がある。どうしても全体性というならば、それは線が関わるのはベラスケスの絵画において構成されていた全体性なき全体性ではないだろうか。全体性は魂のように消滅し切るかといえばそうではなくて魂の如く現れるのだ‬ね。わたしは思想史アマチュアだからこんなふうに考えるのだけれど、普遍主義という名の全体性なき全体性を多様性と呼ぶことはやはり急ぎ過ぎた理解なのだろうね


17世紀の知識革命‬ 

近代においては、価格が価値をきめる。ネオリベラリズムの思想が席巻する現在、何でも彼でも金がものをいう。そこでは社会と市場とが 、価値が価格と同一視される。そういう物の見方が確立したのは、そう遠くに遡らない。500年前からの17世紀、交換の時代から始まること。だけれど、この時代の支配的思想は、価格と貨幣に先行して、先ず価値あるものは何かを問うたのである。価値あるものをいかに分類し名を与えるか。二つの価値あるものが交換されるのはなぜか?それを文のどこで言語化できるか?17世紀の思想は、複雑な世界から自立しはじめている、簡単な世界の現れをみている。17世紀の思想革命は、複雑な世界をみる物の見方にたいして リアルにかんじられないときはじまった知識革命であった。同時代的に、アジアでも町人が推進した知識革命が起きた。‪「道あり人あり」という「道」よりも、「人あり道あり」の「道」のほうが価値があるのはなぜかを‬根本から問うラジカルさをもっていた。ここから、仁斎は、当時東アジアを代表する思想ー朱子学ーにたいして思想闘争を挑んだ。改めて、思想革命とは何か、私なりに整理すると、それは、究極的に依拠できる価値あるものを学において発見していくことではないか。学問は近世まで寺社と宮廷貴族に独占されていた。町人が学の要請された意味を発見していく。江戸時代の学問する町人たちは、複雑な世界(奥深い内面)から自立しはじめている、簡単な世界(天と地の間の往還)をリアルにみはじめているのである。思想の解体的ラジカリズムを、あえて『論語』を選んでその読みを再構成していくことによって、万民のために普遍化していく‬ ‪。 ‪アベノミックスと呼ばれる安倍政権に体現された‬、ネオリベラリズムの近代は、17世紀において卑近さから語り始めた自らの画期的な視点を生かしているだろうか? 

17世紀の思想は、複雑な世界から自立しはじめている、簡単な世界の現れをみている。17世紀の思想革命は、複雑な世界をみる物の見方にたいして リアルにかんじられないときはじまった知識革命であった。同時代的に、アジアでも町人が推進した知識革命が起きた。「道あり人あり」という「道」よりも、「人あり道あり」の「道」のほうが価値があるのはなぜかを問うラジカルさをもっていた。ここから、仁斎は、当時東アジアを代表する思想ー朱子学ーにたいして思想闘争を挑んだ。改めて、思想革命とは何か、私なりに整理すると、それは、究極的に依拠できる価値あるものを学において発見していくことではないか。学の要請された意味。それは人においてはじめて可能となるものである。17世紀思想が発見した学びこそ、万人が依拠できる多数の入り口をもっている。近代は卑近さから語りはじめたこの画期的な視点を生かしているか? ‪「この道しかない」とする、1%と99%を分割しようとするネオリベラリズムの思想は学に値しない。それは「人あり道あり」の「道」ではあり得ない。‬

( 現代にあってモーツアルトは簡単すぎてかえって演奏が難しいという。是と比べたいのは、『論語』"為政第二"で、ここから簡単すぎて読めなくなる。「天下の儒者たちの語る言葉がただ高遠であって、卑近でないのは、彼らに徳がないからである」と伊藤仁斎が言うようには...

対話による言語を学ぶのはとりあえず思惟だ。思惟は最初に誰が言ったかを読む。思惟と切り離せないもので、行いによる言語を学ぶのは身体。身体は卑近を読む倫理だ。卑近も、高遠と反対の方向からの理念的構成物だから、その解釈はそれほど簡単にそこに無いと知って愕然とする)


L'alphabet et la representation absolu


アルファベットの意味とはなにか? 

ー アルファベットと絶対的代理 

L'écriture alphabétique est la plus muette qui soit, puisqu'elle ne dit immédiatement aucune language. Maid étrangère à la voix, elle lu est plus fidèle, elle la représente miex. Derrida 「アルファベット文字は、直接的にはいかなる言語も語らぬがゆえに、すべての文字(エクリチュール)のうちで最も無言である。しかし、声とは無関係でありながらそれは声にいっそう忠実であり、声をよりよく代理(表現)するのである。」 D

 E

 C

 O

 NSTRUCTION


Behove this sound of Irish sense. Really? Here English might be seen. Royally? One sovereign punned to Peter y'all pense. Regally? The silence speaks the scene. Fake ! ‬

‪So This is Dyoublong?‬

‪Hush! Caution ! Echoland !‬

‪(Joyce Finnegans Wake )‬


Mais l'immobilité attentive de ses yeux renvoie á une autre direction qu'ils ont suivie souvent déjà, et que bientôt, à n'en pas douter, il s vont reprendre : celle de la toile immobile sur laquelle se trace, est tracé peut-être depuis longtemps et pour toujours, un portrait qui ne s'effacera jamais plus.(Foucault)

つまり、すでにしばしば彼の眼がたどってきた、そして疑いもなくただちにふたたびとるであろう方向 、いいかえれば、そのうえに、もはや決して消されないであろうひとつの肖像がおそらくはずっと以前から、そしてこれからも描かれつづけ、描かれたままであるにちがいない、不動の画布の方向のことだ。(フーコ 『言葉と物』渡辺訳)


あなたほど信条をもたぬ保守の政治家は存在しなかったよ、Bye bye!さて安倍退場のあと応援するものを失っても日本会議のウルトラナショナリズムが収束するように思えない


‪ねえねえ、大嘗祭やってもらって、しあわせになったひとがひとりでもいるのかしら?国家は異界の入り口を独占したいらしいけれど、多分入り口は何処にもあるよ。路で拾った4個の石をリズムよく順番に左右のポケットに入れたり出したりすれば時空の歪みへの入り口になる。ベケットの小説に書いてある...‬


「安倍を見る」会の国民のみなさんは飽きないのですかね?


‪日本人を分析しているというわかい香港の女性の観察によると、日本はbuddyが好き。彼らは寂しいからではないかと。なるほどね、そう見られているんだな。わたし自身については寂しさを強く感じるほうだとおもうが、四、五冊の書物以外に一体感をもとめるのはヤバイと感じる。そういう意味で本こそは国内亡命の場所かな。国内亡命者は本の厚さに属しているけれど、そこは部分にはならない偶然とそこから常に新しく成立する連続面がある‬ことに遅かったのだけれどやっと気がついてきた...


トータルに考えることが不可能となっている本当に嫌な世の中だ。それは外部にある過去との関係を考えられなくなったことによる。過去を考えれば、普遍として確立した物の見方ではやっていけなくなってきたときそれとは異なる見方があったことがわかる。‪質問することによって、‬普遍はたえず再構成され得る。倫理的に一つに非ず。 

卑近なところからトータルに考えるためには、外部にある過去との関係を考えることが大切である。たとえば、ゴダールへのインタビューを解釈してかんがえてみたことだけれど、文字を発明したメソポタミア文明との関係がみえないので、現在アメリカが行なっているこの地域への侵略がどんな意味をもつのかをトータルに考えることができないでいるのかもしれない。アメリカは文字を侵略していると質問してみよう。そう考えてみたら、どんなことが言えるか?新しい普遍を再構成しようとするわれわれの思考が依拠する言語と言われるものを支配するつもりではないだろうか?‪これが、卑近なところから‬トータルに考えるためには、外部にある過去との関係を考えることが大切であるということの意味である。‬


来日する習近平にたいして、経済の話ばかりするのではなく、共産主義でもいいから外国と少数民族との関係を解決しなさい、それから政治的自由と法の支配を確立して権力者の支配をやめなさいと言うのはだれなのでしょうか?安倍晋三ですか?自身と自国のあり方を正すことなくして言うことができますか?


ひとくちにヨーロッパ音楽って言うけれども、ヨーロッパにだって多くの民族があって、それぞれのローカリティーがあり、そのローカリティーベートーヴェンの音楽などにも、ある意味では出ているわけでしょう。僕たちが、今、多くの民族音楽のローカルなもののなかに在るすばらしさに本当に気付いて、人間にとって、根源的な大事なものがそこに在ると気がつくのは、それはもしかしたらベートーヴェンなんかを知ってるからかも知れない、とも思う。ベートーヴェンを知らないのと、知っていた上で、ローカルなもののよさを見つけるのとでは、その重さは大分違うんじゃないかな。ー武満徹


BBCはベートーベン全作品(1000)の演奏を放送したことがある。この企画のために、演奏されなかった小作品もたくさん演奏した。18世紀全体が聴こえてくるほどの広がりなのだという。ウイーンの田園交響曲はスラブからの影響があると聞いてはいた。スコットランドから影響を受けた作品も結構あるんだね。残念なことに、現在は、二週間かけて朝から晩まで録音したそれらのテープを再生できずにいる...


ウィーン古典派の音楽家たちが、民族音楽の影響をどんなに喜んで受け入れたかは周知の事実です。たとえば、ベートーヴェンの《田園交響曲》第1楽章の主要主題は、スラヴ民族の舞曲の旋律によるものです「民俗音楽とは何か」1931 バルトーク


Quī nimium multīs 'nōn amō.' dīcit, amat. 


あまりに度々「俺は愛していない」と言う人は、愛しているのだ。ーオウィディウス「恋の療治」


向日葵運動のときのこと、連日台湾から私のYouTubeに1日数百回アクセスしている人がいた。後日、子安先生の講演で台北に行ったとき呉叡人さんが見ていたとおっしゃっていた。早稲田大学小教室の市民大学講座における子安先生の柄谷『世界史の構造』批判をみていたようだ。現在香港で起きていることの日本人にとっての意味をかんがえるうえで非常に大切なインタビューだとおもって私は読んでいる。ただし「香港ナショナリズム」という視点には同意しない。21世紀のどんなナショナリズムも、フランス革命の時代において従属から自立できる平等を実現する意義をもっていないから



ゴッドファーザー映画が描く<血>は、誕生を現す標であることをかんがえると血の場面は人間の誕生を表現している。ただテレビ放送の日本語吹き替えでこの場面を見たものだから、この場面の初めにおいてラテン語が語られていたとは知らなかった。


翻訳ほどおぞましいものはない。翻訳なんかいらない。言語(エクリチュール)の存在と人間の存在は同時的に両立していた。そこに連続性があったのに、諸言語(ラング)の侵入はそれを不可能にしてしまったというわけだ。弁証法的な深読みの謎めいたイメージを作りあげてしまう‬


kre  dans un ordre   peck ti

e   fulminant.     kruk

pte


中国革命のイデオロギーに行かず、香港の民主主義の経験にも行かず、「アベを見る会」の国民に留まる均衡。だけどそれは、一国民主主義と自立的一国言語のナショナリズムのなかに安定しているだけの不均衡かもしれない。不均衡のまま同じであることは不可能である。問われている思考は、困難でも、アジアにおけるグローバルデモクラシーの外部的あり方についてではないか


ああ気持ちわるい!「伊勢に即位を報告」って、報告を受けるのは、「皇室の祖先である天照大神」かよ?起源の後退と回帰というフーコの文を思い出す。人間が存在しない時代に遡りながら、人間の思考(起源についての)を投射する矛盾って何だろうとおもうのですよね、思想の分野ですが、近代になってこういう矛盾にとらわれることが始まったといわれますが、厄介だなとおもっています。何というか、「われ考える、ゆえにわれ存在する」のコギトの思想が飛躍して、「人間は人間の存在を考える、ただしそれは人間が存在しない限りにおいて可能である」というもだと私はおもいます。


「皇室の祖先である(『といわれる』『とされる』だったかも)天照大神」とフジテレビで言った。天照大神って神話の神ですよね?


「伊勢に即位を報告」(朝日新聞)って書いちゃっているのだけれど、報告を受けるのは、NHKやフジテレビで繰り返している「皇室の祖先である天照大神」かよ?と、起源の後退と回帰というフーコの文を思い出す。人間が存在しない時代に向かって遡りながら、人間の思考(起源についての)を投射する人間の歴史認識を問うている。厄介なことに、近代における「われ考える、ゆえにわれ存在する」となんか自然に語るコギトの実証主義的思考が、「人間は人間の存在を考える、ただしそれは人間が存在しない限りにおいて可能である」(‘未来を思い出せ’)といういかにも終末論的なものと共存している。こう教えてくる人間認識の歴史にも耐えられない。そんな言説は時代遅れだよ、と、人間と共に消滅している近代に向かって異議申し立ての言葉を吐きたいのだけれど


人間が存在しない時代に遡りながら、人間の思考(起源についての)を投射する矛盾って何だろうとおもうのですよね、思想の分野ですが、近代になってこういう矛盾にとらわれることが始まったといわれますが、厄介だなとおもっています。何というか、「われ考える、ゆえにわれ存在する」のコギトの思想が飛躍して、「人間は人間の存在を考える、ただしそれは人間が存在しない限りにおいて可能である」というもだと私はおもいます。まあしかし、『といわれる』『とされる』ならば、だれがそれを語っているかを注意することが大事で多分そうして距離をとる判断が成り立つはずですが、場合によっては世界神話の普遍性をかんがえてみる契機になることだってあるかもしれませんが、しかしこういう言語の方向に行くのではなく、神話についての注釈の歴史に関心なくテクストも読まずに、『である』を繰り返して同一性に絡みとられてしまうと、それは日本会議的な思考停止のヤバイ伝達と、アイデンティティーの方向へいく排除の言説になりはしないかと心配です。一番ヤバイのは、信頼していた専門家の中には、そういう事実がないことを知りながら、何かの目的をもっいて、何千年も『いわれてきた』と『である』とを結びつけて言ってしまうのがいるのですね。かくも連続性を実体化すると戦前の考え方に戻ってしまいます(長文失礼)


元祖寸劇

ー善行はプラス、わるい行いはマイナス


閻魔大王「貴様の書いた人生バランスシートはプラスになっているが、馬鹿者!都合の悪いことを隠さず明細書をだすのじゃ」


フクロウねこ「明細書はありません」


‪ Jonathan Swift, who took aim at Leibniz’s thought-calculating machine in his 1726 book, Gulliver’s Travels. In one scene, Gulliver visits the Grand Academy of Lagado where he encounters a strange mechanism called “the engine.”‬

‪Swift’s point was that language is not a formal system that represents human thought, as Leibniz proposed, but a messy and ambiguous form of expression that makes sense only in relation to the context in which it is used.‬


‪By OSCAR SCHWARTZ‬


‪In the 17th Century, Leibniz Dreamed of a Machine That Could Calculate Ideas‬


フーコの精緻であり且つダイナミックな物の見方

表象が物に帰属させられてはいないこと、つまり多様性が予め結合したかたちで主観に与えられてはいないことこそが、他人との諸表象のやり取りを常に可能にする。なぜなら主観はどのように触発されるかによっては規定されず、表象を合成することにおいて自らを規定しているのだから。-『カントの人間学』ー

コッポラの映画を流してくれたテレビのおかげで、自覚なくラテン語を初めて聞いていたのである。血は映画においては誕生をあらわす。と同時に、隠れている観客の欲望も。諸言語(ラング)による吹き替えに観客がもつ幻想が投射されている。それは支配する欲望である。もしかしたらナショナリズムの誕生かもしれない!?

カタストロフィを制御するノセントで勇敢なキートン。これはアメリカの原風景でもある。だが面白いのはそこじゃない。わたしの関心は芸術作品みたいにロープが連接しているのかはっきりしない点にある。どうも家は起源の記号らしい。起源というものを時間の流れから解放するアナーキーなイメージをよむの


なぜ中国と日本とは近代において出会えないのか?不可能にする分散している近代を問わなければね、「自身を語る」こだわりをみせるとき?否、他者との関係に集中するときだ

アイルランド文学といわれるものはアイルランドでそれがはじまる前にすでにイギリスに知られていた。存在していなくとも存在するのである。この事情は不思議でも何でもなく、植民地化された地球の多数派がおなじ経験をもっている。日本文学においても、『源氏物語』とかそういう自立的な文学が出てくる前に、中国文明のなかに存在していたと考えることができる、『古事記』『万葉集』が中国文明のなかにあったように。それなのに存在しなかった「日本古代」という虚構によって、<自己においてはじまる前に既に他において存在していた>そういう配置を隠蔽してしまう。‪オリジナリティの虚構にとらわれる日本文学は帝国主義<日本文学>というべきである。‬